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生きている行為とそのセンス

「キリエのうた」から、上書きをしたくなくて映画作品をすっかり見なくなった。
気が付けばnoteも10/19以降書いていない。今日は12/5なので、一か月半くらい、綴るべく言葉がなかった気もする。
「なかなか秋にならないね」なんて言っていた時からあっという間に、街はグレーのグラデーションを含みながら、冷えた風が頬へ刺さるように移ろっていく。
さてその期間なにをしていたかというと、秋らしく読書がとても進んでいた。やたらと分厚い本も手に入れて、今はインプットを強化する期間なんだな、と妙な納得をしていた。さらには一眼レフカメラを買ったもんだから、山へ登っては滝と風景の写真を撮ることに夢中になっていた。
写真はとても面白いのだけど、なかなかどうして、意図した色が出ないし、できあがった写真に説得力がなんとも感じない。言語と違う表現方法なんだろうなと思っていたのだけれど、youtubeでフォトグラファーという人たちのチャンネルで勉強しているのだけど、その人たちはやたらと喋る(youtubeだから当然か……)。普通の人より、おしゃべりなんじゃないかと思うくらい個性的で、技法を言語化してわかりやすく説明してくれる。なので僕は、覚えた知識を頭で羅列しながらシャッターを切る毎日。
「3点構図の交点に主役を配置する」
「被写体の視線を画面に描く」
「黄色か赤か。緑か青か」
「余分なものは写っていないか」
「視線の高さは表現に適しているか」
経験を重ねていけば、これらの文字はどんどん略されながらシャッターを押せるようになっていくのだろう。夢中になって撮っていたから、あっという間に2,000枚を超え、SDカードを整理するのに1日費やしたりもした。
どうしても平坦で普通の写真になってしまうから四苦八苦している。人はこれをセンスというのだろうか。
文章もそうなのだけど、本当にセンスある人のnoteは違和感を感じることもなく、するりと読み進めることができる。
ゆったりと流れるワルツのような文章、さらりと春先の優しい水流のような文章、タイプライターのような角をもって心に刻み込まれる文章、理解が追い付かないほど上手に情景が綴られている文章、体と心で感じとれてひとつになってしまう文章、ゆっくりと振動するように口元が綻ぶ文章。
僕がいまフォローしている方たちは、センスある文章を書いているからとても読みやすい。
まあ、うらやましい。
ギターも少しだけ嗜むのだけど、歌も楽器もそこに至ることができていない。
写真、文章、ギター。
仕事とは別で、いまここで生きていると感じることができる行為。

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