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MBA Women Career Talk #12 その① -2021.09.19

女性のキャリア形成を支援する会社「A&CO」がプロデュースするオンラインセミナー「MBA Women Career Talk」。毎週日曜日の朝に開催しています。

12回目となる今回は「企業派遣MBAの実態。好奇の目をどう乗り越えた?社内でチャンスを引き寄せたその訳に迫る」と題しまして、株式会社やさしい手の橘さんをゲストに迎えてお話を伺いました。

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橘さん、ご登壇

三竹 麻子 みなさま、おはようございます。社会人大学院、女性のキャリアプランニングを支援する株式会社A&CO代表で、立教MBA2期生の三竹と申します。

お忙しいなか、また日曜日の朝から今日も「MBA Women Career Talk」にご参加いただきまして誠にありがとうございます。

このセミナーは社会人大学院の在学生、卒業生、あとは、ヘッドハンターやビジネスコーチの方など、キャリアの専門家をお招きしましてキャリアに対する考え方やコアバリューを見出していくセミナーでございます。

毎回違うセミナーのテーマで、参加者のみなさまと共に思考を巡らせながら毎朝日曜日、同じ時間に実施しております。

川原 真理さん では、本日もみなさまよろしくお願いいたします。さっそく本日のゲスト、橘さんのライフラインチャートの共有をさせていただきます。今回セミナー初の関西MBAというところで、橘さん、自己紹介とこれまでのキャリアのご紹介をお願いできますでしょうか。

橘 麻由美さん はい。おはようございます。私、株式会社 やさしい手に勤めております、橘 麻由美と申します。

210907_橘さま

株式会社やさしい手
コンサルティング事業本部
SV3部 副部長
橘 麻由美さん


1973年神戸生まれ。2019年4月に立命館大学大学院経営管理研究科に入学、2021年春、MBA修士課程を取得。結婚、出産を経て、2008年在宅介護会社『やさしい手』に入社。友人の紹介で時々稼働する登録型訪問介護員から正社員となり、訪問介護事業所やサービス付き高齢者住宅での管理者を務め、現在はコンサルティング事業本部にて、関西を中心とする介護事業者様のご支援を行う。

私はですね、MBAのホルダーといってもちょっと特殊でして、一般的にみなさんが目指されてきて、MBAを取得したというよりは、いろいろ子育てを経て、勤めるようになって、会社からこういう進学をしてみてはどうかっていうところでMBAというか、大学院に入学したという経緯があります。

ちょっと特殊なので、私にしか伝えられないことがあるんではないかなというところで、いろんなところで発表させていただければなと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

橘さんのライフラインチャート

川原さん ありがとうございます。では、いま投影させていただいているこのライフラインチャート。改めて橘さん、これまでのキャリアを振り返って簡単にご紹介をお願いできますでしょうか。

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橘さん はい。まず、私なんですけども、ちょっと10代のころにいろいろございまして、10代で結婚。で、18歳のときに子供を産んでおります。その長男を出産したときにですね、実は助産師さんが同級生のお母さんでして。

陣痛で痛がっている私にですね、そっと手を差し伸べてくれるというか、背中をさすったり、いろいろ声をかけてくださって。で、その彼女はナミちゃんっていうんですけど、ナミちゃんのお母さんってなんて素敵な仕事をしているんだろうという風に実感したというか、感動して。

そこから少し医療系、看護であったりとか、そういったどなたかの役に立てるような仕事にゆくゆくは就いていきたいなという興味を持ったということがこの介護業界に入った入口ですね。

とは言いつつ、そのあとは専業主婦でずっときていたわけで、18歳で子供を産んでから3人の子供をもうけるんですけども、その間にいろんなことがございまして、まず20歳のときに母が亡くなったという。

くも膜下出血で倒れた当日に亡くなったという経緯があってですね、もともと母子家庭だったものですから、母子家庭で一人の親しかいない状態で母親を亡くすというところで、今後のいろいろとどうしようかなあということがありました。

でも、結婚したときにですね、私は10代で若いお嫁さんだったわけですけども、主人の両親が非常にご理解がある両親で、10代のころは私はある程度荒れている生活というか、それこそ一般的に認められるようなタイプではなかったんではないかなと思うんですけども、お姑さんがすごく教育をしてくださったというか。

で、実は主人のほうは、保険会社の系統というか、お父さんがそのときにそれこそ保険会社の支店長をされていた方なので、まあまあいわゆるキャリアを積んでこられているご家庭で、お母さんももちろんそういったお考えだったんですが、結婚してから主人を支える奥さんっていうのはこういうことができないとだめだよっていうことで、調理のことであったりとか、お掃除のことであったりとか、お作法についてですねいろいろ教わったということがあり、ある日にはミシンが届けられ、ちょっとした時間には雑巾を縫ったりとか、子供の服を縫いなさいみたいな感じでそういったことも教わってきたかなあと。

母の死はあったんですけども、たまたま結婚をしていて主人の両親がいたこと、お姑さんがいたことによって救われたかなあということと、一般的な家庭とか、人との繋がり、親戚との繋がりであったりとか、社会との繋がりをどういう風なお作法で立ち振る舞っていくのかっていう風な教育を姑さんからされたかなあと思っています。

ただ、その姑さんもですね、53歳のときに大腸がんを患って、その後発覚してから1年後に亡くなっているんですね。それが私が25歳のときで、いろんなことがあったんですけど、その姑さんの死が一番自分のなかでは辛かったかなと思います。

そのあとですね、いろいろと子供を育てながら専業主婦をしていて、周りのお母さまたちに助けられ、なんとかかんとかやってきたわけですけども、主人は自営業でそれなりに収入もあり、何不自由なく生活していたんですね。

社会とのつながりを考えるようになる

でも、あるときに一番下の子が保育園を上がってもうすぐ幼稚園になろうかなって、まあ年長さんになる手前ぐらいで、もうそろそろこの子育てだけの中心の生活というよりは、子供たちが育ったあとの自分の生活というか、キャリアとか、社会とのつながりっていうことを考えるようになったんです。

その理由は、主人が自営業だったので、朝早く出ていって、お付き合いもあり、なんだかんだで帰りはいつも午前様で。子育てが終わったら、ママさんたちの交流もなかなか減っていくっていうこともありつつ、そういうことを考えていくと、やはり自分も社会に出て働いて、自分のブレーンを作っていく必要があるんじゃないかなって。

ただ、それを主人に相談すると、女性が外で働く必要もなければ生活が困窮しているわけでもないので、働く必要がないっていうので、なかなか理解が得れなくてですね。

それで今後の自分の人生とすごく向き合ったというか、当然子供も大事、主人との生活も大事、だけれどもそれだけで本当にこれからの長い長い人生を越えていけるんだろうかという風に考えたときに、そういったロボットというか、自分のやりたいことを押し殺してまでこの生活を続けることがよいのか。それとも、そこを振り切ってでも自分のやりたいことというか、自分の思い描く人生を選んでいくのか。

どちらの表情が子供たちにとって影響を及ぼすのかっていうことをいろいろ考えてですね、離婚を決意したという経緯があります。これが29歳のときですね。

そこから、離婚にやっぱり少し時間がかかったんですね。当然大きな理由もなければ私には両親もいませんので、親権の問題とかいろんなこと、裁判を通じていろいろ決着するんですけど、これが1年以上かかるわけですね。

そこでいろいろ消耗していきつつ、落ち着いたころに友人の紹介でようやく介護施設に入社をすると。そのときには資格も何もなく介護の業界に入ったんですけども、そこの主任さんがすごく厳しい方で。利用者さんの状況であったりとか、介護っていうところの難しさをいろいろ学ばせていただいたという感じでした。

やさしい手へ入社と退職

働きながら資格を取得していって、少しずつその介護の専門知識というか、そういうところを高めていきつつ、いろいろとやっているなかで、また別の友人が現在私が勤めるやさしい手で勤めていて、少し人手が足りなくて空いている時間に月に1回2回でもいいから手伝いに来てくれないかっていうことで、自分のいまの会社と関わりだすっていうことになります。

でも、まだまだ自分には技術であったりとか、スキルっていうところが足りないっていう風には思っていたので、介護施設で働きながらやさしい手のお手伝いもさせていただき、それ以外にも医療の方とか、いろんな方々と交流を含みつつ、スキルを伸ばしていたということがあります。

ちょうど2004年、長男が中学に上がる前ぐらいに、変則勤務ですとなかなか夜勤があったり、いろんなことがあって。ちょっと思春期の子供たちにとってはあんまり良いことではないんじゃないかなということもあり、ちょうどそのときにやさしい手で事業所のメンバーを探して、正社員を探しているということでお声がかかってですね、それをきっかけに入社をしたという経緯にあります。

その頃はまだまだいまのように終業時間とか、残業時間とかそういったことが厳しくなく、問われることがなく、休日にも出勤しないといけないとか、自分の担当者は自分一人で抱えるというようなことがあって、ヘルパーさんたちが休むとそのフォローを全部1人でしないといけない。

新しいお客さまが来ても、そのアセスメントであったりとか、プランを組むのであったりとか、そういう調整も自分1人でやっていかないといけないっていうことがあって。

まあ、それはそれなりに楽しい時間ではあったんですけども、休みの日に自分の子供をほったらかして他社をご支援するっていうことにちょっとだけ疲れを感じてですね、一時休んだということがあります。

いったん退職はしたんですけども、この株式会社やさしい手がですね、介護事業者としては珍しくPDCAを回して、それでお客さまのより良い生活のためのプランドゥアクションというところにすごく力を入れている会社でして。

それだけはなくて、経営の視点を担んで持ちなさいということで、いわゆる一般のサービス提供責任者という、これは普通の会社の一般社員のことなんですけども、その人たちにもPLを見せてですね、事業所の。

収入であったりとか、支出であったりとか、経常利益がどうのこうのっていうところが毎月1回会議で行われるという特殊な会社だったんですね。それがすごく面白くて、自分たちがやっていることがどのように売上に変わっていき、その売上からどういう事柄で支出が生まれていき、そしてどのように会社に貢献しているのかっていうのを考えるようになったときに、なんか面白いなと。

施設で働いているとそういう経営的なところってまったく携わることがなく、一生懸命働いたところで得れる収入は限られていて、すごく少ない賃金で働いていたということがあって。

やさしい手ではそういったことはなく、ちゃんと自分たちが納得できる。なぜこの収入なんだと、なぜこれだけしか経費を使えないんだと、人材募集はなぜこれまでしかできないんだととか、そういったことがちゃんと数字として見れるっていうのがすごく面白くて、その経営に一般社員が関わっていけるっていうことが、非常に自分にとっては魅力的だったんですね。

当然のことながら、PDCAっていう言葉もそれまでまったく知らなくて、「PDCAって何だ?」っていう。「日本語に戻して説明してくださいませんか」っていうことをお願いをして、懇々と説明をしていただいたことがあります。

もともと利用者さんのプランを考えていくにも、法律を守ってちゃんとサービス提供しないといけないっていうことがありますから、プランを見て、そして実施をして、チェックをして、そのプランが正当なのかどうなのかっていうことをアクションとして起こしていく。

ヘルパーさんたちにもこれは伝えていてですね、一般的な時間給で働く非常勤の登録型ヘルパーさんたちにも我々はPDCAをすごく重視していて、ヘルパーさんたちがそれをやってくれないと我々が望むサービス提供っていうのは成り立たない。

当然のことながら、サービス提供するのは登録型ヘルパーさんたちですから、その方たちが理解をしていないとそのお客さまにそういったサービス提供をすることができない。だから、ヘルパーさんたちが非常に重要で、ヘルパーさんたちに研修の機会を与えていくっていうことを重視している。

なので、いろいろあって、子供たちとの兼ね合いがあって、いったんは退職したんですけども、必ずもう一度子供たちと落ち着いたりとかですね、自分の器を成長させることができれば、やさしい手に戻ろうということはその退職の時点から決めていた。そのときの直属の上司、デスクの横にはいまの社長の弟の次男さんがおられて、その次男にも説明はさせていただいて、いったんちょっと退職をさせていただいて。

再入社とMBA

そこから4年ほどいろいろと、もう一度現場の施設に戻ったりとか、やさしい手以外の訪問在宅介護事業所っていったいどういうような経営をしているんだろうっていうことも知りたくてですね、訪問介護在宅サービスっていうのは弊社のことしか知らずに、よそがどういった運営をしているかわからないっていうので、ちょっと他社を経験して。

そこでもすごく恩師の方という出会いがあっていろいろ学ばせていただいて、いまの時点であればもう一度会社に戻ったときにうまく力を抜いたりとか、うまく自分の感情とか、あとは周りに任せていくっていうことができていくんじゃないかなということで、36歳、2008年ぐらいに再入社をしました。

再入社してから半年ぐらいは私の紹介してくれた友人がそこの事業所の責任者をやっていて、いろいろそこのサポートをしながら関西圏の事業所を増やすっていうところで、もともと紹介してくれた友人がまた別の店舗に行き、そこで私がそこの管理者をさせていただくと。そこで業績を伸ばしたっていうこともあって、そのころに力を入れ出したサービス付き高齢者住宅であったりとか、住宅のほうに異動になっていくっていうことがあります。

住宅型に関しては、すごい投資がやっぱり伴うので、在宅サービス、訪問介護事業所で得た利益がどんどん失われていくんですね。当然のことながら、立ち上げて1年、2年で黒字化するっていうのはすごく難しくて。

ただ、私が異動したところはもともとものすごい赤字を生んでいて、1ヶ月で600万円くらい赤字があったんですよ、異動した時点で。それを3ヶ月で整えて、半年後には黒字化させるといった経緯があってですね、「なんでこんな黒字化ができたんだ」っていうところで、ちょっと聞き取りがあって。

それを全店舗で展開していった結果、会社の業績が上がっていった。そういった経緯があってなのか、どうなのかがわからないんですけども、あるとき電車のなかで社長から「MBAに行ってみないか」というお話があって。

いったんはお断りさせていただいたんですけども、ちょうど一番下の子供が大学を卒業して社会人になるっていうタイミングでもあってですね、この先何を糧に仕事を打ち込めばいいんだろうかっていう、少し気分が落ち込んでいることもあってですね。

子供から「いや、そんなんだったら絶対行ったほうがいいよ」っていう。「これからの人生のほうが圧倒的に長いんだし」っていうような話で。で、お受けさせていただいたと。

当然、最初の話に戻ると10代で結婚していろいろやっていますから、勉強がまったくできない私だったので、やっぱり入学当初ものすごく苦労してですね。

すごい莫大な時間をかけて専門用語を調べたりとか、プレゼン資料を作ったりとか、基礎から学び直すということで、土曜日、日曜日の朝はもう朝4時ぐらいから夜中の3時ぐらいまでかけて、いろいろ調べてなんとか乗り越えていたというところがあります。

周りの同級生の方のご支援もあってですね、卒業にたどり着くわけですけども、すごく良い経験で、いまとなってはそのMBAがきっかけですごくいろんなものを得たなと。

人生の最大の財産というか、そういったものに変わったんじゃないかなという風にいま感じております。

立命館大学 ビジネススクール 大学院経営管理研究科(RBS)の特徴

すみません、時間があれですね。すみません。RBS、立命館大学なんですけども、すごく広い、懐の深い学校ではないかなという風に感じております。

それは授業の受講の仕方にも特徴があって、平日の夜間18時半から21時半までっていうことと、土日の朝から夜までというところの授業を組み合わせて講義が受けられるっていうことの特徴があります。

これはなかなかないんじゃないかなと思っておりまして、そういったところでも社会人が学びやすい環境を整えているなと。

実はエリアマネジメントに取り組んで、富国生命ビルのなかに学校を設けたっていうこともすごく先駆けているんじゃないかなと。

そういったことを通学の利便性に繋げたりとか、カリキュラムの豊富なところとか、実務家教員っていうところにも繋げていてですね、本当に受けやすい、いろいろ経験ができる学校だったかなという風に思います。

基礎科目があって、そのあとに展開を受けて、そのあとに特殊科目を受けるというような授業構成になっていて、基礎科目で基礎を学んでから、展開科目で応用を学んで、そして特殊講義で実践を学ぶっていうような流れもあってですね、本当にボストンコンサルティングであったりとか、そういう大手の実務を積んできた講師の先生が特殊科目を持っていてくださったりとか、すごく多様な。

あとは、コーチングの専門の先生がコーチングであったりとか、キャリア開発の講義を持たれたりとかしていて。実践に伴った講義を受けられるところもすごく魅力的なことかなあと。

男女比でいうと、我々卒業時点で18名の社会人。キャリアのほうでは、2,30名くらいの社会人ではなくて、学生から学びに来た子たちがいるんですけども、男性が78%ぐらいで、女性が22%ぐらいっていうところで、圧倒的に男性が多いっていうところにも、これはどこの学校でもそうなのかなあと思うんですけども、4名しかいなかったんですね、同級生の女性が。

でも、4人しかいないからこそより絆が深くなるというか、仲良くさせていただいた要因でもあるし、男性の方々との性別の差があるからといってその男性たちが、「女性ってね」みたいなことではなくて、もう本当にみんな和気あいあいと仲良く講義を受けることができたというところがあります。

はい。ちょっと時間の加減もあるので、この辺で質問とかに移れればなと思いますけども、すみません。

川原さん ありがとうございます。やっぱりこれまでの橘さんの経歴を振り返って、すごく波が激しかったんだなっていうのを改めて知らされましたし、それとはいえ、お子さんも育てながら第2の、第3の人生をっていうアップデートをすごく上手にされてこられていまに至るっていうところを感じました。

そうですね、時間も限られているので、チャットでいただいた質問を絡めてお話をいろいろとさせていただければと思うんですけれども、いま現在やさしい手に勤めてらっしゃって、毎月赤字600万のところから黒字化させたっていうストーリーをお聞きしたんですけれども、改めて何で黒字化できたのかですとか、やさしい手の企業規模感っていうのはけっこう大きいですよね。大きい規模感のなかで、どう黒字化を展開させていったかっていうストーリーをちょっと簡単に教えていただけますでしょうか。

その②へ続きます


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