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「ごめんね」を「ありがとう」に変える空気感

と、ある日の出張販売の合間に
コンビニへ資料を印刷しに行くと

コピー機を操作しながら電話して
使い方を聞いているおばあちゃんがいて

私が後ろにいることに気がつくと
「並んではるから後でかけます」
と、慌てて電話を切り私に譲ってくれた。

そーっと並んだつもりだけど
圧を感じさせてしまったようで
申し訳ないことをしたなぁと

「私は後でも大丈夫ですよ😊」
と、返しつつも

(待たれると焦らせてしまうから
お言葉に甘えて先にした方がいいかな?)

(お手伝いした方がいいかな?
店員じゃないし、お節介しない方がいいかな?)

と、迷っていたら

「FAXの使い方がわからなくて…」
と、悲しそうな顔でおっしゃったので

「お電話番号をお伺いして大丈夫なら…
私でよかったらお手伝いしましょうか?😊」
と、声をかけてみることに。

昔は困っている人がいたら
迷わず声をかけてお手伝いしたり

転んでいる人を走って助けに行ったり
迷子のお年寄りを家まで送り届けたり
何も考えず反射的に動いていたけど

良くも悪くもいろんな経験をする中で
"素性の分からない者同士の関わりは避け
見て見ぬふりをする方がいいのか"…と
声をかける前に迷うことが増えてきて。

なので内心ドキドキだったけれど
すごく、すごく喜んでくださって
何度もお礼を言ってくださって一安心。
声をかけてみてよかった😊

おばあちゃんは
「店員さん、忙しいから今は無理みたいで。」
「いつも頼ってたから自分で何もできなくてダメね。」

と、申し訳なさそうに話していたけれど
私も今は(ギリギリ。笑)ついていけてるだけで
おばあちゃんぐらいの年齢になった時にはきっと
「最近の機械はわからない」と言ってると思う😂

子供の"できない、わからない"は
まっさらで生まれてきて知識や経験がないからで

お年寄りの"できない、わからない"は
たくさん頭も身体も使って歳を重ねてきたから。
(言い方は悪いけれど、長く使えば能力は落ちる)

それぞれ理由は違うけれど自然なことで
生きていれば、遅かれ早かれ誰もが通る道。

お年寄りや子供などを"弱者"として
守ること自体は悪いことじゃないけれど

それが強者を作り出したり
"できない"ことに引け目を感じさせ
謝らせる空気感を生み出していて
苦手だなぁと感じることが多々ある。

"弱者"というのは不利な状況のこと。

今、できている自分は偉いわけでも、
上の立場にいるわけでもないんだから
相手に敬意を持って接する気持ちは
どんなときも持っていたいなぁと思う😊

人を助ける話や
ボランティアの話になると

"自己肯定感を満たすため"とか
"役に立つ=存在意義(共依存)"とか
そういった話題も出てくるけれど

私は基本、自分大好きなので。笑
自分の心がどう感じるかが大切で

「悲しむ姿を見ると悲しくなるし
笑顔を見ると嬉しくなるから」

「胸が痛んで後悔するから助ける」

「何かの時に役に立てないよりも
役に立てる自分の方が好きだから」
といったシンプルな理由で行動します。

自分も少しずつ、できないことが増え
昔のようにはいかないこともあるけれど

「ごめんなさい」ではなく
「ありがとう」と言いたくなるような
やわらかく心地いい、程よい距離感で
助け合いながら歳を重ねていきたい。

終わってから自分の印刷をしていたら
おばあちゃんがコーヒーを買ってきてくれて

「ありがとうございました。」
「本当に助かりました。嬉しかった」
と、ニコニコ顔でお礼を言われたのが
なんだか凄く嬉しかった。

飲みなれない甘めのコーヒーは
なぜかとても美味しく、特別な味がして
缶を見るたびにおばあちゃんの笑顔を
思い出せるのもまた嬉しい♪

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