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『サラダ記念日』と出会った日、それから

 7月6日。午後になって、検索ワードとかそういうのでサラダ記念日の日だと気づいた。俵万智さんの第一歌集である『サラダ記念日』。これを自分のマイルストーンとして挙げる歌人は多いけれど、私にとってもそう。

 そうでもない、とずっと思っていた。けれど折に触れて思い出したりしているうちにあれ? と思うようになった。国内外7回の引っ越しの度に無くなって、買い直すと出てきて、しばらくするとまた無くなって、でも1冊はあって、という私の本棚のレジェンド本でもある。

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
 俵 万智 『サラダ記念日』 1987年 河出書房新社

 本当はサラダではなく別の食べ物だった、と聞いたことがある。とてつもなく上手いこの歌。7月6日という日はサラダに適している。晴れていても曇っていてもサラダが映える日。全く意図されていない方向だと思うけれど、こんなにサラダを美味しく食べられる日ってそうないと思っている。


 私はずっと短歌を作ってきたわけではなく、学生時代は詩や歌詞の方に意識が向いていて、短歌は高校時代に文芸同好会誌に出すために作っていた。私は当時の自分が思う正しい短歌は嫌いだった。教科書に載っている、自分が生まれる前に作られた古めかしい言葉遣いのものが正しいのだと思っていた。思ってもいないことは書けない。普段「なり」とか「けり」とか使っていないし、歴史的仮名遣いとか文語で考えていないし、などと真顔で思っている高校生だった(ちなみに今は上記のものは短歌をより美しく、美味しく飾るためのコスチュームのようなものだと思っている)。

 そこに来たサラダ記念日。新鮮だった。えーこんな感じでもいいのか、ちょっと読んでみなきゃ、と思っていたところ、ある日同好会の部長が

「ちょっとこれ、どう思う?これが短歌なのッ? 」

 と鼻息荒く言ってきた。突き出しているのは『サラダ記念日』。図書室から借りてきたらしい。

「いや、定型になってるし短歌だろうよ…」 

 と言うと、「短歌ってのはね…」と長い話になった。要は彼女は、ルール違反だ、と言いたかったらしい。歌の内容から言葉遣いから何から何まで、間違っているとのこと。私が苦手に思っていたことは彼女にとっては外せないポイントだった。私は勢いに押されるばかりだった。

 その後、図書室で借りてカードからバレて(私の高校はニューアーク式だった。これまでに借りた人が本に備え付けの貸出カードからまるわかりシステム)またあの勢いでワーワー言われたらかなわん、と学校の帰りに遠回りして書店で買い、夢中で読んだ。都会の話はすごかねえ、と思った。当時の私はこの歌が好きだった。ハンズに憧れていた。

大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋

 色恋無く音楽と文学にひたすらのめり込む高校生にとって、めくるめく大人の恋愛の世界に目が回るようだった。

たっぷりと君に抱かれているようなグリンのセーター来て冬になる
いい男と結婚しろよと言っといて我を娶らぬヤツの口づけ

 読み進めていくうちに驚きと新しいものを知る喜びと同時に、ゆるく絶望が立ち上がった。言葉はわかりやすいけれど、この境地は常人には行き着けない場所だと気づいてしまったのだ。ああ、部長の言うあれはこういうことだったのだ、と思った。面倒くさくて古めかしいあれもこれも短歌を短歌らしくする仕組みで、その武器を全部取って丸腰でやるには恐ろしく鋭敏なセンスが必要だと思ったのだ。弱気にも私は撤退を決意した。

 今好きな歌、一首。

卵二つ真剣勝負で茹でているネーブルにおう日曜の朝

 この歌をあまり誰かが引用したところを見たことがない。論じるべき強い歌が他にたくさんあるからだろう。私はここ数年、こういう歌が気になる。そんなに難しくはないはずのゆで卵作りに真剣に挑んでいる若さ・未熟さの輝き。それと切りたてで香りを放っているだろうネーブルオレンジが相まって、そのみずみずしさが眩しくって仕方ない。今はもうあまり店頭でネーブルオレンジを見ることがないから、懐かしさもある。

 刊行されて35年という。あれからものすごく長い時間が経って、私も歌をつくる人の端くれとなったし、もうあの日の高校生じゃないけれど、あの時感じたことは今も鮮烈に私の中にあって指針になったり、やっぱりそうか、と気付かされたりしている。何度も読んできたから内容に驚きは感じなくても、それまでただ読んでいた歌が放つじわりとした魅力を感じ取ることもあって、これからも私の中で、そんなに場所は取らなくても消えることのないものなのだと思っている。

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