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あかね噺-第126席・打ち上げ-感想

<第125席感想・感想リンク・第127席感想>

「しのびごと」連載開始。
「悪祓士のキヨシくん」のキャラ配置、「キルアオ」っぽい設定が気になったかな。どうなっていくかに注目したい。
世間では、兵庫県知事の話が盛り上がっているけど、自殺を巡る詳細は横において、維新の党の立ち回りが気に入らないかな。
維新の党は、悪い意味でポピュリスト的で、世間の声に弱すぎるし、こういった不祥事に対して切り捨ての見切りが早すぎる。
結局、斎藤知事の問題に対して維新の党は、何もできてない。橋下さんの頃から永遠と続く、逆らうものは切り捨てる稚拙な党運営から進歩していないと感じる。
維新の切り捨ては、行政にも現れてて、それがこの騒動の根本的な問題だが、こういう批判も切り捨ててる。だから出来ることもあるんだけどね。
私が維新の代表なら、出直し選挙で全面的にバックアップするから辞職しろと辞職を説得にかかるけどね。
斎藤知事が辞めたとして、次の知事選挙に、維新は誰をどう言って推薦するのか?
一番損したのは、維新の党だと思うけど、どうなるんかな。

◆あらすじ


週刊少年ジャンプ 2024年9月16日発売 42号

独演会の打ち上げで、あかねは、志ん太の破門について聞かされる。

◆感想


次の展開がどうなるかに注目していましたが、ストレートに”志ぐまの芸”の核心に迫るお話でしたね。
破門について告げたときに、絶句のあまり周囲の雑音にフォーカスが当たるところや、最後のダブルミーニングと、オシャレに纏められてました。
今回は、志ぐまの芸・一生と芝浜、について書いていきます。

志ぐまの芸
今回の話で、私のは”志ぐまの芸とは、先代・志ぐま(以降・先代)が未完として、噺の題名を記さずやっていた「芝浜」だった”と解釈しました。
素直に受け取れば、このような解釈で合っていると思います。

以前の感想で”志ぐまの芸”について考えた”何をもって未完としたのかを理解できないので、誰も継承できない噺”と予想したのですが、当たらずとも遠からずという感じです。
その演目が「芝浜」だと言うのは盲点でした。何をもって未完なのか?と考えた時に、「芝浜」もあり得るなと思ったのですが、これほど色んな落語家が掘っている噺を”未完”だと言う事の恐れ多さを考えて”無い”と思ったのですが、「芝浜」と見てしまうと納得させられました。

「芝浜」は大ネタですが、色んな落語家が研究していろんなアプローチで演られているメジャーな落語です。
それを、大名人が演じて好評を得ているにも関わらず、それを未完だと言う事が恐ろしすぎます。
自分がやってる「芝浜」よりも、評価されている「芝浜」が未完だと言われたら、どんな顔をして「芝浜」を演れば良いのか?人気のある演目である「芝浜」を高座にかけれなくなりそうです。
こんな営業妨害を許さざる得ない実力と、それを気にしない胆力・破天荒さに、先代の凄さを改めて感じました。

何をもって”未完”なのか?
例えば立川談志は年末の独演会で毎年「芝浜」を演っていましたが、毎年いろんなアレンジを入れて演っていました。
そのアレンジがハマる年もあれば、ハマらない年もあったようで、今年の出来は良かったとか、談志は下手になったと言われることもあったようです。
2007年の芝浜が伝説の一席として語り継がれているのですが、これだって”未完”だと言えば”未完”な訳です。

「芝浜」は、三遊亭円朝が三題噺として即興で作った噺で、桂三木助の得意ネタとして演られていた以外は、あまり演られない噺だったそうです。
その頃のネタ時間は15分程度、それを人情噺として泣かせる噺にした円楽。美談を美談として演らないのは俺だけだと談志。それを受けて私ならこうすると演った志ん朝。名人がこぞって競演した事でネタ時間は50分にもなる大ネタへと進化したそうです。
この逸話を聞くと”志ぐまの芸”の謎も、このあたりにある感じがします。

一生と芝浜
今回には、先代の葬儀の模様も描かれていました。確認できたのは、うらら、円相、全生、一剣、正明でした。志ぐまの奥さんと思しき女性と、遺影を持つ息子の姿も描かれていましたが、この息子が亨二兄さんかどうか?
正明が、学生服で参列しているので、亨二と正明の年の差は定かじゃありませんが、正明が35歳以下とは思えないので、違うかなと思います。
また、志ん太、泰全、が居ないので、彼らの弟子入り前だったと考えると20年以上前に亡くなっている事になると、亨二は9歳前後と推測できるので、小学生での詰め襟を着ているとは考えにくい気がします。

この時に、若かった一生と志ぐまは”師匠の芸を守る”と誓いました。
しかし、志ん太の「芝浜」を見て、評価した志ぐまと、許さなかった一生。
二人の不仲というのは、守るべき”師匠の芸”が違うのかもしれません。

今回、語られた破門の理由が「芝浜」が「志ぐまの芝浜」だったからと判明しました。
そうなると、一生の言った「あんなもん”芝浜”とは言わねぇよ」というセリフの意味が変わってきます。
ストレートに取れば「芝浜」の出来が悪くて「芝浜」になってなかったという意味です。

しかし、一生が可楽杯でひかるに語った「芝浜」は、落語の主題は”夫婦の愛”であり感情の機微の表現が大事だと述べています。
志ん太の芝浜は、人を語る道を選んだ落語で、上の条件からズレていません。

「あんなもん”芝浜”とは言わねぇよ」は、志ん太の「芝浜」は”志ぐまの芸”だったと取ることが出来ます。
そのうなると、ある意味では評価しているとも取れると思います。
今回の話で、破門の真相は「”志ぐまの芸”を披露しているにも関わらず、観客を取りこぼしていた志ん太に”師匠の芸”を貶めかねないと捉え破門にした」
という推測を立ててみたけど、まだ何かピースが足りない気がしますね。
志ん太の会心の一席や、一生と志ぐまとの確執、厳しくなった真打ち昇進試験、このあたりが明らかになると、また違う景色が見えるかもしれません。


阿良川の歴史と志ぐまが語っていたので、このあたりもいずれ明らかになる日を楽しみに感想を終わりたいと思います。でわでわー。


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