全てが真空からできた 相対性理論と仏教
哲学とは真理に辿り着く作業であるが、これは物理と仏教の話だと思う。
学問の多くは真理を探究するためにある。
数学が美しいのは真理だからだ。
そして真理は一つであるために、それぞれの腑に落ちる言葉を使って誰しもヒトは真理を語り出す。
今日は相対性理論のアインシュタインと仏教のブッダが異なる言語だが共通して考えたこと、そしてその結論について触れたい。
E=mc²
E=mc²とはアインシュタインの相対性理論から導き出された世界で1番有名な式であるが、これはエネルギーが物質と同じと言っている。
ほんの僅かな物質にも膨大なエネルギーが秘められていることを表す式である。
Eはエネルギー(energy)
mは質量(mass)質量とは動かしにくさである。
cは光の速度(英:speed of light ラテン語:celeritas constant/定数 由来は諸説あり)
上記の単純な3つで構成されており、シンプルであるが故に美しい。
だからこの式はみんな好きだと思う。
特殊相対性理論の要のひとつは「光速度不変の原理」で、この宇宙に存在するあらゆる速度が相対的であるとする一方、唯一の例外としての絶対速度が光だと宣言する。
【E=m】c²(光が1秒で進む距離を1メートルと表すことにしてみるとcも消える)
光の速度を介して質量とエネルギーが等しい。
エネルギーから質量へ、また逆も然りとしてそれらは姿を変えるのだろうか。
冷たいものをレンジに入れて温める。
すると、"熱"エネルギーが増えた分、質量も増える。
温かいものは冷たいものよりも重い(動かしにくい)のはエネルギーが加えられたからだ。
物体の質量と思っていたものが、実は物体の内部に集まっている質量エネルギーといえる。
と同時に、その内部エネルギーが外部に熱エネルギーや光エネルギーとして放出される際に、物質の質量が減少するともいえる。
質量保存則は成り立たないことも表される。
光というものも不思議である。
光を超える速度のものはなく、光とは波長であり粒子であるともいえる物体であり、しかし物体というのは3次元で質量と体積(縦横高さ)があるものだが、光は長さがあるといえばあるし、ないと言えばないものである。
質量が光のエネルギーに変化する中で物質がどんどん伸びていって、それと同時に時間がとまってしまう。
光に近づくと質量が極大になることも表している。
さて、この物理の式E=mc²と仏教の根本教理が同等のものを表しているのかもしれない。
色即是空
色即是空(しきそくぜくう)とは、ブッダが仏教の根本教理として広めた言葉である。
この意味を噛み砕いてみる。
wikiによると空は恒常な実体がないという意味である。
恒常とは一定して変わらないというものであることから、【恒常な実態がないとされる空】は物理の言葉では、エネルギーに近い。
エネルギーは常に高いところから低いところへと移動する実体のないものであるからだ。
色とは、宇宙に存在するすべての形ある物質や現象を意味するらしい。
形ある物質。
物質とは、場所をとり一定の量(mass)をもつもののことであるから、【質量】と体積を持っていれば物質である。
即とは、すなわちという意味で
是とは、道理にかなうという意味がある。
つまりこの二つから即是とは、"すなわち正論だが"などと捉えてもいい。
上記から
色 即是 空とは、
「物質(質量と体積)はすなわち正論だがエネルギーである」と訳することができ、般若心経では色は空と異ならずとも言っていることから
空(エネルギー)=色(質量)
E=m となる。
1879年生まれのアインシュタインと同じことを言ってる約2500年前に誕生したブッダはすごいと感じるのである。
紀元前5世紀、キリストが生まれる前にブッダは悟っている。
約4億人が今もなお信仰している仏教の根本は、物質はエネルギーだということであった。
全ては真空からできている
真空と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
真空パック、真空管、化学で習った真空鈴。
これら全ては真空と名は付くが、本当に真空なわけではない。
真空とは【何もない状態】のことであるが、人工的に真空を作ってもその中にはものを通り抜ける物質が紛れ込む。
だから絶対的な真空とは現在は再現不可能であるといえる。
では、本当の真空とはなんであろうか。
それは、ビックバン以前の時である。
唯一の真空は水素とヘリウムがうまれる前の時間を言う。
絶対真空。
そこには何もなかったが、一切何もなかったわけではなかった。
インド人大発明の0(ゼロ)であることだが、宇宙が本当に何もなかった時期は、真空の中で物質と反物質が生まれてはぶつかって消えていくことを繰り返し、エネルギーが変化することで真空が揺らぐ現象が起こった。
だからビックバンが起き、138億年前に誕生した宇宙は10^−36秒後から10^−34乗秒後というわずかな時間に、高温になって膨張し直径1cmほどの火の玉になった。
その後、水素とヘリウムが生まれ、なお膨張を続けながら私たちの今の生活を作っている。
だから真空とはどのようなものでもないが、どのようなものでもあることができるのである。
真空はすごい。
無から全ての有ができた。
ブッダは物質の真の相は真空であると言っている。
あらゆるエネルギー、物質の母が真空であるという。
「宇宙の晴れ上がり」のときに3000度だった温度は、現在-270.45℃まで下がったように、エネルギーは高温のまま保たれないけれど、何か別のものを生み出すことができたならそれは素晴らしいことだと思う。
そして生み出すこと、付加価値を基準とした多くの国の現在の経済の在り方、貨幣経済の仕組みはヒトのエネルギーを上げて、何かを生み出すことに着目すれば素晴らしい仕組みである。
関係の中の関係 実体
例えるならば机でも鉛筆でもいいが、食の多様性と日本文化、絶滅と生物と四季と環境問題、食料自給率などを語れるお寿司はすごいので、そのすごいお寿司で実体についても語りたい。
お寿司とは少量の酢飯の上にネタを乗せているが、これを分離したらお寿司ではなくなって刺身と酢飯握りになる。
分解して残っているものは分解する前と同じ具材であるが、それはもうお寿司ではない。
何が言いたいかというと、お寿司は実体を持っていない。
同じ物理量の具材がそこにあるにもかかわらず、ネタをはずすとお寿司がお寿司で無くなったからだ。
実体のないものは空で、エネルギーである。
職人からエネルギーを与えられたから、魚が寿司となり得たのだ。
ヒトも同じであるのかもしれない。
エネルギーがあるから何かに成る。
寿司職人が寿司職人であるのは、寿司職人になりたいという思いの強さとエネルギーがヒトを寿司職人に成らせる。
またその実体は時間と空間を共有とする私の前にエネルギーを与えられたお寿司として現れ、私と私でない職人がいるから観測された。
世界は2つしかない。
ここと、ここでない場所である。
ここでない場所ではこの瞬間も様々なことが起こっているのかもしれないが、その様々なことの一部を面白く観測することが豊かなのかもしれない。
現代はその術が多くあって豊かだな。
バリエーションが増える分、世界を面白くするにはある程度ヒトがいた方がいいという見方もできる。
お寿司であることは実体としての魚や米が存在しなければ存在し得ないけれど、しかし目に見えるものや形づくられたものは、実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変なる実体は存在しないといえ、エネルギーの流れがあるだけである。
だからヒトはエネルギーを与えられた上で、その関係がエネルギーを奪うだけではならないし、与えられたエネルギーから何かを生み出すことが美しいと思う。
癖
水素は原子核の周りに電子が1つ回っている。
そういう癖をもった物質である。
私とあなたが違うのも、癖があるからで
癖が違いを作るのは面白い。
例えば私の身体も、鉄も石も、私たちと私たちの生活全ても、この思考も、この思考を伝えることができるあなたも、それは癖を持ってそこにいたいとおもっている物で出来上がっている。
癖の強さは魅力であるなと、今日もまた噛み締めている。
そしてブッダがヒトは誰しも幸福になれると言っているように、幸せであるか?と問いをくれる人がそばにいて、エネルギーをくれる幸せに感謝している。
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