「消滅世界」感想

村田紗耶香「消滅世界」を読んだ。

この小説は、セックスではなく人工授精での出産が当たり前になっていく世界が舞台だ。この本は某読書会の課題図書になっており、この記事には私の感想だけでなく、読書会で出たおもしろい感想や意見も書いていく。(他の人の発言はそれとわかるよう表記する)

以下ネタバレ注意

途中であることと母殺し

雨音は樹里と話していて、自分たちはいつも進化の「途中」にいて、完成することはないと言われる。「途中」という言葉は雨音には救いであったが、それと同時に、自分の真実を確かめたいと思う気持ちを止められないものにするものでもあった。「途中」という状態を信じているならば、エデンシステムに洗脳されたあとに母を殺す(眠らせる?)必要がないようにも感じる。千葉で洗脳され、エデンシステムは「途中」なんかではない、完成されたものだと雨音は信じるようになったのかもしれない。母が、子が誰なのかが明確であれば、憎しみや怒りはその人にピンポイントに向けられる。雨音が母を殺したのは、ネガティブな感情というノイズを処理したに過ぎなかったのだろう。

私が生きている世界は「途中」でしかないということには同意する。自分が思う「普通」は教育で、洗脳で培われてきたものだ。これがいいとか悪いとかは、私の勝手な決めつけの結果に過ぎない。エデンシステムを楽園と感じるかは、洗脳されやすさの如何にかかっているだけだと思う。だから、彼らが幸福なのかを決めるのは彼らだ。私が幸福かどうかを決めるのは私であるように。

色とものごとの対比

この小説では、以下のような大きな対比がみられた。

赤…
人間の交尾、熱、経血などの、昔の人間がしていたセックスと関係する色。
雨音の母の好きな色(ソファ、カーテン、小さなランプなどの赤い家具、母が言うには「愛の色」)、母に飲ませる紅茶の色
本能の象徴?



青…
エデンシステムのしかれた千葉でよく使われる色(水色の遊歩道、水色の砂利、水色のコンクリート、ツリーの上の淡い水色の光)。水の色(交尾のときにいろんなところから出る水、人物の名前(雨宮、雨音、水人、水内))、青白い胎児、青ざめる雨音の母。
最先端であること、清潔感の象徴?

ほかの色は、黒と白が目立っていた。

・白(千葉でよくみられる色。「子供ちゃん」の着ているスモック、センターの職員の着ている白いスーツ、「子供ちゃん」の身体の「白アスパラのような柔らかさ」、亡くなった人の骨でできた砂場、白いビル、水内くんや新生児センターの看護師の着ている白衣、雪、青白い胎児、白い手術室、病院の白い廊下、母に出すショートケーキの色、ショートケーキを乗せた白いお皿、「子供ちゃん」の真っ白な、紙のような皮膚、白いシーツ)

・黒(千葉へ行くまでと、千葉で出てくる色。黒い雨、小さなトンネル、喪服(黒い大きなワンピース)、「子供ちゃん」の真っ黒な瞳、コーヒー、黒いハーフパンツ、「子供ちゃん」のおかっぱの黒髪)

エデンシステムの気持ち悪さの正体は愛情の不在?

読書会では、エデンシステムを気持ち悪いという人が多かった。気持ち悪く感じる理由として私が気づいたのが、「愛情の不在」だ。読書会中に愛情は大事だという話になった。愛情を受けずに育つと愛着障害になるし、愛を注いでもらえなかった戦争孤児は鬱や精神病になっていたらしい。エデンシステムでは各個人に名前がなく、年齢で分けられた大きいグループに名前が付けられている。個人という単位がない。大人は「おかあさん」として、「子供ちゃん」に決まった形で「愛情のシャワー」をそそぐことが義務付けられている。だが、「愛情のシャワー」は実際のところ愛情ではないのだと思う。愛情は愛する側と愛される側が明確でなければ成り立たないと思うからだ。私は「命を大事にしましょう」っていうフレーズを何度も聞いたことがあるが、自分に言われている感じがせず、響いてきたことは無い。複数の大人が複数の子どもを愛することは現実世界でもみられること(共同体の中の子どもなど。読書会メンバーによるとプラトンの「国家」には、ポリスを正常に機能させるには国家全体で親になるのが良いと書かれているらしい。)だが、現実世界にはまず、個人という単位がある。複数の中身がみえないと具体性がないし、それがなければ愛している実感もしくは愛されている実感はないだろう。(アイドルがアイドルとして、神が神として成立できるのは、名前や顔、声、性格の違いという具体性、他のものとの境界があるからだろう)子供ちゃんもおかあさんも、どの個体をとっても表情をつくる際、同じ筋肉の動かし方をすると雨音はいっている。見ためや性格の区別がかなりつけづらいようだし、千葉は個人の消滅した世界だといえる。

みんな一緒になればいいやん、をやった結果気持ち悪くなるという事でエヴァの人類補完計画を思い出した人もいるらしい。人類補完計画とは、みんなでひとつになったら幸せなんちゃうん?やからひとつになろう、みたいな計画だったと思う。たしか。エヴァにはアスカという登場人物がいるのだが、彼女が「気持ち悪い…」と言うシーンがあったそうだ。(私はセリフは覚えててもタイミングまで覚えてない…)

作中世界でのアイドルの不在

作中世界では、キャラはいたがアイドルだったり2.5次元の存在だったりはいなかったという指摘が読書会メンバーからあった。昔からの形であるセックスが廃れている世界だから、性欲の対象を3次元の人間にするのは流行りじゃなかったのかもなと思う。2次元のキャラは肉体をもたないので、清潔感があって良かったんだと思う。あとは、人間か作りもののキャラなのかの境界線のあいまいな存在は、愛情を向ける対象には厄介なのかもしれない。千葉ではクリーンルームが設けられ、もはや性欲を向ける対象すらなくなるし、タイトルの「消滅世界」で消滅するものは肉体や、肉体から出る音や感覚があるんだと思う。

男女の収入差

読書会では他にも、男女で収入差があるよね、という指摘もあった。婚活パーティーで相手に求める条件の項目のひとつに収入があったし、結婚しないと収入が心許ないと言う人もいた。男女の境がどんどんなくなっていっている世界であるにもかかわらず収入差があるのは解せないと言う意見があり、私もたしかにと思った。だが、そもそもこの小説で問題になっていることはそこではないという意見もあった。ここでの問題は性欲という本能とどう付き合うかということであると(言っていた気がする…あんま覚えてない)。

多様性

千葉へ行く前の世界では多様性があったという指摘もあった。セックスする人はマイノリティになっている世界で、雨音は恋人とセックスをする。雨音ほど身体への関心がなくとも、セックスをする人はいたし、好かれはしないが、不思議な人扱いされるくらいで済んでいる。ところが、雨音の母はその多様性から除外されていたということに気づいた人がいた。雨音の母が雨音を、セックスして産んだことが学校で言いふらされ、雨音の母はけっこう悪く言われる。

なぜ実験都市は千葉なのか

実験都市に千葉が選ばれた理由として、以下のようなものが挙がった。

・大都会である東京に近く、最先端の実験をするにはちょうどいいから
・千葉はSFの舞台になりがちだから
・裏ディズニーランド
・著者が千葉出身だから
・国際空港があるから

これは著者の村田さんがいらっしゃるイベントにて尋ねることに決まったので、後日また報告できるかと思う。

男性、権力者の不在

男性、あるいは権力者がいないという意見があがった。巻末の解説には、女性の側からは主としてユートピア小説、一方男性からはディストピア小説といった評価があったと書いてある。読者の性別で評価がここまで乖離するのは、男性あるいは権力者の不在がカギを握っていると思う。千葉に行く前の世界では、夫はいるものの特別なにかしらの権力を持っているようには見えない。雨音が一人目の夫に襲われたら夫は逮捕されるし、離婚もできた。夫婦は裸を見せ合うなんてことはしないべきだとされているし、男性性はほぼない世界といっていいだろう。
そしてエデンシステムのしかれている千葉では、大人は男女関わらず「おかあさん」と呼ばれている。「おとうさん」とは決して呼ばれない。千葉の権力者らしい者は見えてこない。エデンシステムはどうして構築されようとしているのかはわからない。ただ、権力者がみえない状況下でも、千葉の住民らは幸せそうだ。(千葉への移住者が多いんじゃないかというツッコミもあるだろうが、元から千葉に住んでいる人もいるはずだ。)権力者あるいは男性の不在に対して、女性がユートピアと呼び、男性がディストピアと呼ぶ傾向が現れるのは自然なことだろう。(私が読んだときにはディストピア小説だと感じた)

そして父の不在からか、超自我が発達していないという指摘もあった。(誰の超自我が、だったのかは覚えてない)

超自我とは

超自我とはどういうものか?というと

簡単にいうと『道徳意識』です。

https://www.management-consultant.info/?p=6664

だそう。

ラストシーンが近親相姦

ラストシーンで、雨音は子供ちゃんとセックスをする。セックスするというよりはセックスを作る、という表現がされていた。作中世界では家族がセックスをすることは近親相姦だとされており、雨音と子供ちゃんのセックスは近親相姦といえる。セックスが消滅したはずの千葉で、他人の匂いに嫌悪をおぼえる雨音がわざわざセックスを作る。このシーンを、「動物に戻っていく」と捉えたメンバーもいたが、私は全く逆の印象を受けた。前のやり方は忘れてしまって、身体からの声は聞こえなくなっていた、と雨音は言っている。本能が消滅して、恥ずかしさもなくなっている。隣の部屋から聞こえるうめき声を、あれがヒトが動物だったころの鳴き声だったと雨音は言う。雨音はこの時は、ヒトは動物ではないと思っている。身体の声が聞こえるのが動物だし、雨音はこれを終えたら二度とセックスしないのだろうなと私は思った。いちど消滅してしまったものの再生は簡単ではないと思うから。

ラピス

読書会では、ラピスはどろろから着想を得ているのではないかという指摘があった。

手塚治虫のどろろは、体を取り戻していくという点でラピスと共通しているらしい。ラピスは体だけでなく、色も取り戻していく。これも読書会中に気づいたことだが、ラピスは「白→黄色→紫→緑→赤→青」の順で色を取り戻す。赤を見て、雨音は血液の色にはっとし、青を見て涙が止まらなくなる。この赤から青に変わっていくのは、雨音が千葉へ行くことの伏線なのかなと感じでゾワゾワした。

それから、ラピスは「14歳程の姿の少年」で、雨音がラストシーンでセックスする子供ちゃんは、第一次妊娠で生まれたとしたらもう14歳だろうかと推測されている。ラピスと子供ちゃんは同い年なのだろうか。ラピスとのセックスをしなくなった雨音は、子供ちゃんとのセックスをつくることで無意識のうちにラピスとのセックスを再現しようとしたのかもしれない。

ゴールのない恋の苦しみ

朔と朔の恋人は破局した。朔は恋人のことを愛していたし、恋人は朔を好きだった。恋人は「好きよ。だからもう会えないの」と言う。作中世界では、結婚は恋の延長線上ではありえないから、恋のゴールが無さそうだ。ゴールがないから、「恋という名前の感情が、私にはよくわからなくなってきている」という発言が出るのだろう。作中世界で、恋を上手にする方法はなんだろうか。そもそもそんな方法はあるのだろうか。結婚をするつもりはないけれど恋をしている人ならこの世界でもいる。あれは遊びと最初から決めているから成立しているんだと思う。作中世界での恋は本能にしたがったもので、本能と愛の接続が許されないのが苦しみになっているように見える。恋をしたら一生好きと言っていた雨音でさえ、千葉に行ったらラピスたちを忘れかけている。

まとめ

性欲と家族が延長線上にあるのは不思議に感じるし、自然にも感じるのはおもしろいと思った。消滅していくものの正体、現れるものの正体、権力と平和などいろいろな切り口から楽しめる小説だった。意外と短時間で読めたし、超おすすめ。

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