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死なずに此処にいるのは

 日差しはまだまだ暑いのに、仙台の風はもうすっかり秋の薫りです。夏休みが明けたあたりからSNSで目にする「自殺」に関する投稿。死ぬことと生きることへの価値観が渦巻く中で、私もそれなりに思うことがありました。

 初めて死にたいと思ったのは小学校6年生の冬でした。というよりも本当に具体的に「命を絶ちたい」と思ったのはそれが最初で最期です。

 きっかけは「壮絶ないじめ」…などではありませんでした。客観的に言ってしまえばただクラスからハブられただけです。仲良しグループの子達から「嫌い、バイバイ」と書かれた手紙を渡され、次の日からクラスで口を聞いてくれる人がいなくなった。

 …「ハブられただけ」という表現は良くないですね。自分の経験を卑下することで、同じような経験をした人の苦しみまで軽んじることになってしまう。「ハブられた」だけでも私はちゃんと、人への信頼や自尊心をぶち壊されました。

   それでも、期間も短く物理的被害を受けていない私はいじめのニュースを見るたびに「もっと辛い状況の人が沢山いるのに私はこれしきのことでこんなに苦しそうにしちゃダメだ…」と悩んだものです。

 でも「これしきのこと」で、私はどうしようもなく自分の存在が恥ずかしくなりました。恥ずかしくて消えてしまいたくて、どうしたら小学生の自分に死ねるのか考えて、ある日お風呂でそっと湯船に顔を沈めたけれど、その瞬間に脳裏に浮かんでしまったのは「自殺した人の後処理は凄惨でとてつもなく大変だ」という、何処かで聞いた話でした。

 ただ生きているだけですら、こんなに恥ずかしい存在なのに、その上死んだら更に醜く、そして人に迷惑をかけてしまうというのが

このまま生きていくよりも少しだけ恐ろしかった。

生きていればいいことが有るだとか、死んだら大切な人が悲しむだとか、そんな前向きな理由で思いとどまったのではなくて、「自分が恥ずかしいから」という手前勝手な理由で人様に手もお金もかけさせたくなかった。

どこまでも醜い私は、希望に目を向けるでも大切な人の心情を慮るでもなく、自分の恥ずかしさと命を天秤にかけました。でも希望や他人の心といった“そこにないもの”を命綱にできるほど当時の私は強くなかった。

そして今も私は弱いままです。

よく言われる「生きる意味」は見つけられていないし、もう探してすらないけれど、あの時私なりの「恥」の考え方が焼きついたから、幸か不幸か今日まで生き延びています。

 当たり前ですが、生き延びてみると楽しい日もあれば死にたい日もあって、平和ではないけれどそれほど退屈はしません。この世から退場したいと思ったことは何度もありますが、この鎖が解けることがない限り、どうやら舞台を降りることはできなさそうです。

 そしてこれも当たり前ですが、あの時死ねていたら味わわなくてよかった苦しみもあれば、あの時死んでいたら出会えなかった美しさや感動もあります。ありがたいことに今の私には後者の方が大切で、生き延びてよかったと思えています。これがひっくり返らない保証はないけれど。

 こんなタイトルなのに、このnoteが死にたいと思っている人や生きる意味を探している人に届いても何の救いにもならないことが大変哀しく、申し訳ないです。こんな私だから、無責任に「死なないで」だとか「きっといいことが有る」なんて自分が言われて腹の立つことは言えないけれど、もし何か言うことが赦されるのであれば…

 今死にたいと思うほど生に向き合っているあなたがもし生き延びたら、そしていつかお会いできたら、どうやって生き延びてきたのかを教えて欲しい。人との出会いでも、ぶつけた小指の痛みでも、花の名前でも、今日更新される動画でも、誰かの思想でも、そんな簡単に言葉で伝えられるものじゃなくても…なんでもいいです。

お互い生き延びましょう

PS.東北の中高生の多くは8月20日あたりに始業式を迎えていて、「8月31日」が夏休み明け直前の代名詞として注目されていることが、仕方ないけれど少し哀しいです。もしかしたら間に合わなかった子達もいるんじゃないか…「もう遅いよ」という声が聞こえてきそうで苦しいです。

恐らくこの声は、数年前の私自身から届けられたものなのでしょうが…


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