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おしゃべり散歩道―復路/後編[私小説/短編]

◀︎◀︎ 前編

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 昼前十一時。陽が高く昇り始める。春にして、朝から初夏のようだった陽気は、一層夏へと近づいた。砂場の端にはスコップやバケツなどが砂まみれのまま置かれている。子供の笑い声を少しばかり遠くから聞くそれらは、どことなく切ない空気を纏っていた。
「そろそろ帰ろうかぁ」
私はそんなスコップたちを手に取りながら、娘に向かって声をかける。
「やーだぁ」
カバの遊具の背中から顔を出している娘が、むすっとした顔で答える。
「お昼ご飯食べたいでしょ?帰って準備しなきゃ」
「やーだぁ」
即答された。カバから出てくる気配はない。消化されるのではなかろうか。
「とりあえずお砂場セットは片付けよう!その後もう少し追いかけっこしたりブランコしたりしてもいいよ」
「やーだぁ」
カバと一体化してしまったのか。
「一緒にお水ぱちゃぱちゃして、お砂場セット洗おうよ。ぱちゃぱちゃーって!どう?」
「やーだぁ」
カバと一体化して、やーだぁとしか言えなくなってしまったらしい。
「お水冷たくて、きっと気持ちいいよ。一緒に、冷たぁい!って言いながら洗おう?」
「いいよ!」
笑顔で返事をすると、娘はカバに吐き出された。
 水の流れは冷たく心地よい。砂場セットの道具たちを、娘と二人で洗い流す。
「見て!きれいになった!」
娘は自分が持っていたスコップを握りしめて言う。微笑みを私に真っ直ぐ向ける。
「他の道具も綺麗になったよ」
私も娘に微笑みを返す。すべての道具を、砂場セット用のビニール製袋にしまった。
「帰ろう!」
娘の方からそう切り出してきた。砂場セットを片付けたことで、気持ちの切り替えができたようだ。
「いいよ、帰ろっか」
言いながら、ハンカチで娘の手と自分の手を拭く。その後は娘と共に水分補給をし、リュックを背負い、砂場セットを持つ。準備万端、と公園の出口へ向かっていると、
「娘ちゃん、橋渡りたい!」
娘が言い出した。橋とは、駅近くに流れる細い川に架かっている、小さな木製の橋のこと。どれくらい小さいかと言うと、大人の足で四歩程度で渡りきれるほどだ。先日駅付近を散歩していた時にたまたま見つけ、娘は喜んで何度も渡っていた。
「んー……どうしようかなぁ」
私は悩んだ。今いるこの公園は、実家から南に大人の足で徒歩十三分の場所にある。駅は実家から東南東に十一分。位置関係を考えると、三角形を描くようにある。行けなくもない。しかし、駅近くを経由して実家に帰るとなると、大人の足でも三十分近くかかる道のりとなる。
「橋まで行ってからお家に帰ると、たーくさん歩かなきゃいけないよ?娘ちゃん、自分で歩ける?」
「歩ける!」
娘は張り切って右拳を突き上げて答える。
「いーっぱい歩くんだよ?自分で歩ける?」
「歩ける!」
今度はぴょんぴょんと飛び跳ねながら答える。全身で行きたい気持ちを表現しているようだ。
「ママもたくさん歩くから、疲れて抱っこできなくなっちゃうかもしれないよ?だから自分で歩くんだよ?いい?」
「いいよ!」
娘は右手の親指を立てた。
「じゃあ橋に行こうか」
「行こー!れっちゅー……ゴー!」
公園の出口
「待って待って」
私はちょっと待ってと娘に伝えて、携帯電話で母親に電話を入れた。帰りが十二時近くになることと、息子の昼食についてを伝える。それから娘の左手をとり、手を繋ぐ。
「出発しよう!」
「しゅっぱーちゅ!」

 公園を出て道を左に進む。どこで右に曲がろうかと考えて、最初の交差点でふと右手を見る。北東へと登り坂が続いている。方角的に橋の方へ近付けそうだ。
「娘ちゃん、こっちの道に行こう。橋はあっちの方だから」
「いいよー!」
二人で坂を登る。
「登り坂だよ。坂道だね」
「しゃかみち?」
釈迦……と思いつつも、
「そう、あの歌の、坂道〜♪っていうのと同じ坂道だよ。こういう高いところに向かったり、反対に低いところに向かったりする道のことを坂道って言うんだよ」
往路で歌っていた歌詞の一部を歌いつつ説明する。
「へぇー」
娘は自分の足元を眺める。
「しゃかみちしゃん、こんにちは」
まさか道にまで話しかけると思わなかった。道って話し相手の対象になれるのか?と言うか、道が会話するとしたらどの部分の声なんだ?アスファルトか?それとも地層か?むしろ地球?私は戸惑いつつもアテレコすることにした。
〈娘ちゃん、こんにちは!頑張って登ってね〉
「うん、がんばる!よいしょ!よいしょ!」
なんだか張り切り始めたので良しとしよう。そんなことをしている内に坂を登り切った。正直、二十代も後半になってくるとこんな坂でもきつい。少し休憩が欲しい。
「あ!」
娘が民家の塀の下あたりを指さした。
「たんぽぽしゃんだ!」
嬉々として近づいていく。
「ふあふあのやつ、ふーしたい!」
「綿毛?」
「しょれ!」
「わ、た、げ、言ってみて?」
「わーたーげ!」
たんぽぽは話しかける対象ではなく、綿毛を飛ばすものらしい。
「はい、どうぞ」
私は綿毛になったたんぽぽを一輪摘み取って、娘に渡した。
「ありがとう!ふー!ふー!」
受け取ってすぐに飛ばそうと試みる。顔を真っ赤にして、唇をタコのようにして、眉間に深くシワを刻んで、何度も何度も吹いている。綿毛は一つ、二つと飛んだ。が、それ以降は飛ぶ気配は全くない。こんなにも一生懸命なのに、こんなにも報われないことがあるだろうか。この世界は不条理だ。
「ママ、やろうか?」
と助け舟を出そうとするも、
「娘ちゃんやるのー」
ぷいっとそっぽを向いて、再び吹き始めた。丁度いいので私は少しばかり足を休めることとしよう。それにしても、こんなに懸命に何度も息を吹いて、どうして飛ばないのだろう?不思議に思うほどだった。
「ママ、やってー」
とうとう助けを求めてきた。
「いいよ、見ててよ」
私が吹くと、ほぼ全ての綿毛がいとも容易く飛んで行った。
「綿毛しゃん、バイバーイ」
娘は風に乗った綿毛に向かって、別れの挨拶をしていた。

 再び歩き出し、それから何分経っただろうか。全然歩いたことのない道だが、この辺りもずっと住宅街が続いているらしく、家々やマンション、アパートが立ち並んでいた。
「橋、渡れるかなぁ?」
娘はニヤニヤしながら言う。この質問は、綿毛と別れてから三度目だ。相当橋を渡りたいらしい。
「渡れるよ、大丈夫」
「やったぁ!」
一字一句違わない同じ会話しかしていないが、娘にとっては充分らしい。すると今度は、だらだらと長く続く下り坂が出てきた。その先には高架鉄道が見える。
「あ!電車通るところだ!」
娘が指をさして言う。
「そうだね、よくわかったね」
と話していると、新幹線が走って行く様が見えた。車体の色からしてはやぶさだ。
「はやぶしゃだ!」
夫の実家へ帰省する時、いつもはやぶさに乗車する。そのため覚えているようだ。
「そうだよ、覚えてるんだね」
「じじちゃんばばちゃんに会いに行った!」
ちゃんとわかっているんだなぁ。娘の成長を感じる。
「はやぶしゃしゃん、バイバーイ!」
あっという間に去っていった新幹線にはさすがに話しかけられず、別れの挨拶をするに留まった。そんなことをしている内に、高架鉄道の線路沿いへと着実に近づいてきた。その線路の手前に、木製の看板が見える。見覚えがある。例の橋がある遊歩道の入口の看板だ。もう少しだ。
「もう少しで橋に着くよ」
「やったー!」
気持ちが後押ししているのか、娘は足早になった。顔はニコニコしている。すると、看板より少し手前に茶色い何かが見える。そこは橋というより、細い川の上を走る道路なのだが、川に落ちないよう道路脇に柵がある。柵の高さは大人の肩あたりほどで、何かはその柵の上にあるようだ。しかも私と娘が歩いている側の柵だ。落し物の帽子でも置かれているのだろうか。けれど、あんなところに置いたら川に落ちてしまいそうだ。なんだろう、と私が疑問に思っていた。娘は気づいていないのか、特に何も言わない。一歩一歩、どんどん進み、その何かにも近づいていく。何かはこちらをまっすぐ見ていた。鴨だ。成体の鴨だ。娘の顔が強ばった。怖いようだ。
「鴨だよ、鴨っていう鳥さんだよ」
と私が伝えると、
「娘ちゃん、怖いの……」
すっかり怯えている。揚々としていた意気がすっかり消沈してしまっている
「大丈夫通り過ぎるだけだから」
私は周りを見回し、車が来ていないかを確認した。そして娘の手を引いて道路を渡った。車道越しに鴨を見ると、やはりこちらをじっと見ている。娘は真顔だ。かつて道端で他所の強面なおじいさんに話しかけられた時よりも、ずっと真顔だった。さすがの娘も本物の野生動物とは会話できないようだ。娘はそのまま無言でその場をやり過ごした。別れの挨拶も無かった。
 それから間もなく川沿いの遊歩道に到着した。周りにはたくさんの木々が生い茂り、川近くの池では子供が網で生き物を探していて、なんだか少しばかり田舎に来たかのような気持ちになる。先ほどの鴨もこの川に寄ったのだろうか。川と言うよりはまるで用水路だが、用水路としてではなく、川として作られたのだから川だ。そう、ここは人の手によって作られた川である。周りの木々も同じく、池も同じく、そして目的の橋も同じくだ。
「はーし!はーし!」
娘は再び元気になった。鴨が見えなくなったからだろう。何にせよ、笑顔が戻って何よりだ。入ってすぐの広場で娘に虫除けスプレーをかける。さぁ、橋を目指して遊歩道へ。
「うわぁ」
娘が顔の前で手をぶんぶん振っている。虫がいたようだ。
「虫しゃんやめて!バイバイ!」
怒り口調で言っていた。あっち行けのような意味だろう。そんなことをしていると、視界の端、川の中ほどで、円を描いて水面が揺れた。
「おしゃかなしゃんかなぁ?」
こんな人工の小川に魚までいるだろうか?私もよく知らなかった。
「虫じゃない?」
「おしゃかなしゃん!」
言うなり、娘は立ち止まった。そうだった、答えは娘の中にあったのだった。
「おしゃかなしゃん、こんにちは!」
周りで小虫がぷんぷん飛んでいる最中に娘がおしゃべりを始めてしまった。橋まで行けば草木が減り、視界が開け、虫も少ない。おしゃべりするならば橋のあたりにしてほしい。
〈こんにちは。僕は泳いで橋まで行くよ。娘ちゃんも一緒に行こう〉
私は娘を誘う魚役をこなす。
「行く!」
再び歩き始める。よかった。ほどなくして橋が見えた。相変わらず小さな橋だ。けれど、この小ささが幼児にはちょうどいいのかもしれない。橋の真ん中に着くと、娘はじっと川の方を見つめた。また水面が揺れる。
「誰でしゅか?」
難しい問いだ。
〈魚です〉
「違う!虫しゃん!」
今度は虫だった。難しすぎる。
「虫しゃん、何してるんでしゅか?」
〈お散歩だよー、もう流されちゃう!バイバーイ〉
「バイバーイ」
少し満足したのか、会話を終えた後、橋を渡りきった。
「娘ちゃん、橋渡りたい」
今度は戻るように渡り始める。そして橋の真ん中で、再び川をじっと見始めた。少しすると、また水面が揺れた。
「誰でしゅか?」
魚、虫、と来たから、次は魚か?
〈魚です〉
「おしゃかなしゃん、何してるんでしゅか?」
〈お家に帰るんです。バイバーイ〉
いつものパターンで話を切り上げる。しかし、
「おしゃかなしゃん、お家はどこでしゅか?」
無理やり続けてきた。中々のパワープレイだ。
〈もう、流されちゃうから、バイバーイ〉
「あっちでしゅかー?」
なおも続ける。そんなに魚と長い会話をしたいのか。
〈そうだよー……〉
「流されちゃったみたいだね」
いなくなった魚の代わりに私が伝える。
「流しゃれちゃった……」
ちょっと残念がっていた。ごめんね。再び橋を渡りきる。
「娘ちゃん、もっと橋渡る」
そうなると思ったよ。だからさっきの魚を早々に帰らせたのさ。そして私と娘は、この一連の動作を最低でも六回は繰り返した。それ以降、私は回数を数えることをやめた。それが無意味だと気づいたからだ。私が回数を数えようが数えまいが、運命を変えることなどできないのだ。

 「もう帰る」
 やっと満足したらしい娘がそう言った。私は途中から数えることをやめ、またその後からは思考をほぼ停止させていたため、娘の言葉を受けてはっと我に返った。一旦水分補給をと思ったが、ここでは飲み物に虫が入るかもしれないと考え、ひとまずすぐ近くの駅前広場に行くことにした。
「おしゃかなしゃんとおしゃべりしちゃった」
娘は嬉しそうに歩いた。
 駅前広場には大きな花壇があり、パンジーやチューリップなどの花々が、色とりどりに咲き誇っていた。
「お花しゃんがいっぱーい!」
娘が花と話す前にと、私は急いで飲み物を取り出す。
「ほら、麦茶飲も?」
「飲む!」
娘は花を横目に見ながら麦茶を飲む。本当にずっと横目に見ている。そんなに見たいなら花の方を向いて飲めばいいのに、と思ったが、面白いのでそのままにしておいた。
「お花しゃん、赤ちゃんでしゅか?」
飲み終えた娘が話しかけ始める。
〈ううん、みんな赤ちゃんじゃないよ。お友達なの〉
「お友達なの?」
〈そう、ピクニックに来たんだ。これからご飯なの。娘ちゃんもお家でご飯食べるの?〉
お昼ご飯の存在を思い出したら、大人しく家に帰ってくれるだろうか。私は台詞にそんな気持ちを込めた。
「しょう、夜ご飯食べるの」
娘は朝ごはんをおやつと言い、昼ご飯を夜ご飯と言い、夜ご飯を朝ご飯と言うのだ。
〈お昼だからお昼ご飯じゃない?〉
いつも訂正するのだが、なぜか一向に直らない。わざとなのだろうか。そんなところもまた可愛いけれど。
「お昼ご飯食べるの」
〈じゃあ早く帰らなきゃだね!バイバーイ〉
「バイバーイ」
どうにか別れの挨拶を言うことができた。花壇の上にある時計を見ると、時刻は十一時五十分だった。
「娘ちゃん、もうお昼の時間になっちゃうから、急いで帰ろうね。だから今日はもうお家まで、お花さんたちとはお話ししないようにね」
「娘ちゃんお腹しゅいた」
お腹をさすりながら、うつむいている。
「じゃあお花さんたちとはお話しせずに帰ろうね」
「うん」
娘が左手を差し出す。
「おてて繋ご」
私と娘は再び手を繋いで歩き出した。

 駅と実家のちょうど中央地点あたりに、広いのに人通りも車通りも少なく歩きやすい道がある。その道に差し掛かったところで、娘が繋いでいた手を振りほどきはじめた。
「おてて繋がなきゃ危ないよ!」
「んーん!」
聞く耳を持たない。娘がきちんと言葉にしていないので、私は一旦言葉を引き出すことにした。
「何したいのか言ってごらん?」
「ぎゅーしたいの……」
私はここではたと気づく。そう言えば、公園を出てから一度も抱っこしていない。娘は公園で約束した、自分で歩くということを守っているのだ。たぶん、体の疲れと甘えたい心が、ここにきていっぱいになってしまったのかもしれない。
「そうだね、娘ちゃん、ずっと自分で歩いてたもんね。すごく頑張れたね。約束守れてえらいね」
「うん……娘ちゃん頑張ったの……」
娘はなんだかなよなよと、くねくねと、いごいごとしている。
「甘えたくなったのかな?」
「しょう」
「抱っこかな?」
娘は首を横に振る。
「んーん、ぎゅーなの」
ぎゅー?抱っこと違うの?と考えていると、娘はおもむろに私の右太ももにしがみついて来た。
「これで歩くの!」
「えー!ママ、これじゃ歩けないよー!」
と言いながら無理やり歩くと、娘も太ももを離さんとついて歩く。
「ふふふっ」
娘はとても楽しいようで、中々離してくれない。
「何これー!全然進まない!」
と私自身言いつつも、この状況が面白くて笑いが込み上げてくる。しかし、このままではどんどん時間が過ぎ去ってしまう。
「このままじゃ、お昼の内にお家に帰れないよ!お昼ご飯食べられなくなっちゃうよ!」
「しょれは大変!」
離してくれた。食べ物の力が強いのか、ぽっちゃり娘の食への思いが強いのか。そして再び手を繋ぐ。

 私と娘はその後も、太ももにしがみついてくっついたり、手を繋いだりを繰り返して歩いて行った。二人でたくさん笑い合った。疲れたことなどすっかり忘れてしまうくらい、たくさん笑って家に帰ったのだった。

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