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二人の催眠術師[私小説/ショートショート]

 催眠――眠気を催させること。催眠術――相手を半ば眠らせ、暗示を受けやすい状態にさせること。催眠術師――催眠術を行う者のこと。

 時は令和。あるところに、二人の催眠術師がいた。一人は姉よ二歳女児、もう一人は弟の○歳男児。二人の姉弟は、生まれた時から催眠術師の素質を持っていた。まだ幼い姉弟には暗示を行うことは難しいが、眠気を催させることには長けていた。
 姉弟は大人たちをいとも容易く眠りへ誘う。それは二人の放つ癒しのオーラによるものだ。眠りに必要なものは心の平静。それを叶えるものは安らぎ。姉弟が癒しのオーラを放てば、大人はたちまち心安らぎ、その安穏が心の平静を保つ。そうして大人は知らず知らずの内に、気づく間もなく瞼を閉じてしまうのだ。

 今日も姉弟二人の催眠術師は、ある大人を白昼に眠りに誘うべく画策していた。その大人とは、彼らの母親。その成功率を上げるため、姉弟は夜中から動き出す。
 日が昇るよりも早く、二人の内のどちらが起きる。多くの場合、これはより幼い弟が行う。
「ううぅぅ……」
エンジンをかけるように、まずは低く唸る。母親はこの時点で察し、眠い目を擦りながら起きはじめる。
「うああああぁぁっ」
母親は寝転がったまま乳を出し、弟の口に宛てがった。夜間授乳だ。
「んっんっんっんっ……」
弟は半分寝ながらも、一生懸命に乳を飲む。まんまるの頬を震わせる。一方母親は、ぼうっとしながらも弟の顔を見て起きている。このまま寝てしまうと、母親自身の体で弟の鼻を塞ぎ、窒息させてしまう危険があるからだ。時間が経ち夜間授乳を終えると、母親は弟から少し離れ、服を整えて眠りについた。それから、三十分ほど寝ただろうか。
「うわあああっ」
再び弟が泣き出す。夜泣きだ。母親が弟の背中を手で優しくとんとん叩く。
「ううううっ」
泣き止む気配はない。母親は再び眠い目を擦りながら起き上がり、弟を抱いてゆっくり揺れる。
「うぅ……ううぅ……」
唸りながらも、弟はまた寝始めた。しかし、寝付いてすぐに布団におろすと彼は目覚めてしまう。そのことを母親は知っていた。すでに半年は同じことを経験しているからだ。母親は十分ほど抱き続けた。弟の体からすっかり力が抜け、くたっとしていた。その様子に気づいた母親は、弟を布団に寝かせ、自身も眠りにつく。
 そう、姉弟の第一の作戦は、夜に起こすこと。本来眠るべき夜に起こすことで、睡眠不足となり、白昼に眠気を誘いやすくなるという寸法だ。

 朝起きてから昼前まで、母親は家事のために忙しく動く。姉弟も、母親が家事をしないと生活できないことはわかっている。時たま、構ってほしいと泣くことはあれど、例の作戦を実行することはなかった。
 そして午前十一時過ぎ、昼食。母親と姉弟は、三人で食卓を囲む。母親は弟に食事を食べさせ、その合間に自らの分を食べている。その様子を、姉は自らスプーンを持って食事をとりつつ、じっと見ている。
「ママもいっぱい食べてね」
姉は母親に食べるよう促す。
「ありがとう」
母が応える。
「ママのお料理、おいしいから、たくしゃん食べてね」
母親は思わず満面の笑みになる。
「そう言ってもらえると、とっても嬉しいよ!ありがとう、ちゃんと食べるよ」
「これとってもおいしいから、一口あげるね」
姉は世話焼きな高齢女性のように、有無を言わさず母親の器におかずを一口分取り分けた。
「ありがとう。頂くね。けど、ママの分いっぱいあるから大丈夫よ。自分の分は自分で食べていいんだよ」
そんな母の言葉を姉は気に留めることもない。
「お残ししちゃだめでしゅよ。ちゃんときれいに食べてね」
 そう、姉弟の第二の作戦は、満腹にさせること。人は空腹時よりも満腹時の方が眠気を感じやすい。母親にも必要以上に多く食べさせることで、しっかり満腹になり、この後眠気を誘いやすくなるという寸法だ。

 とうとう正午を少し過ぎた頃、白昼。母親は弟が昼寝に入ってから食器を洗おうと、ひとまず姉弟と共にリビングへ来た。午前中遊んでやれなかった分、姉弟と遊ぼうと思ったのだ。これが催眠術師の姉弟の罠とも知らずに。
 まずは姉が口を開く。小さな声で、それはそれは優しい話し口で、
「ママ、ママとくっつきたかったの。ママだいしゅきだよ」
囁くように語りかけた。そうして、母親を抱きしめる。その様子を見た弟も母親に近づいていき、一生懸命母親に引っ付く。すると、母親は姉弟を抱きしめ返した。
「ありがとう。ママも、二人ともだーい好きよ」
姉の愛情溢れる言葉、加えて姉弟のハグ、その上姉弟のふわふわボディ。その全てが母親に安らぎを与える。これぞ姉弟の真価。二人が持つ癒しオーラが発揮される。そうこれこそ、姉弟の第三の作戦である。
 次に、姉は何やらおもちゃを取り出して言う。
「お店屋しゃんごっこ、しよー」
その手には、おもちゃの買い物カゴに入れられた、おままごとセットがあった。
「いいよ、しよう」
「姉ちゃんが店員さんね」
姉は自ら店員役を買って出た。
「いらっしゃーあせー、いらっしゃーあせー」
すぐさま客寄せに入る。
「これください」
母親がおもちゃのリンゴを手渡した。
「はい、わかりました。ピッ」
姉は自身の人差し指をバーコードリーダーに見立て、指さしでバーコードの読み取りをおこなった。
「しゃくえんでしゅ」
「はい、わかりました」
母親が手を出し、見えないお金を支払う。
「ありがとうごじゃいました」
「ありがとうございました」
この一連のお店屋さんごっこを、
「いらっしゃーあせー、いらっしゃーあせー」
何度でも繰り返す。単調な繰り返しは眠気を催させるためには実に有効だ。そう、これは姉弟の第四の作戦なのだ。母親は知らず知らずの内に、みるみる眠りへと誘われる。気づけば、母親も姉も、二人共が何度繰り返したかわからなくなるほどに、お店屋さんごっこを続けていた。母親の頭は既にぼうっとし始めていた。
 「うぅー……」
 弟が目をこする。眠たそうだ。その様子を、同じく眠たそうな母親は見逃さなかった。
「弟くん、ねんねかな?」
「あうあうーうー……」
何やら訴えかける弟を一瞬待たせて、母親は姉弟のオムツを取り出した。姉弟のオムツ替えを終えてから、カーペットの上に一枚のマットレスを、その上に一枚の敷布団を敷く。母親はいよいよ、弟の昼寝の寝かしつけに入る。
「弟くん、眠そうだから寝かせるね」
姉に断りを入れる。
「ママともっと遊びたかった……」
寂しげな姉を見かねて、母親は別室からタブレット端末を持ってくる。音量を下げてから子供向け動画アプリを開き、それをおもちゃ箱の上に立てかけて置いた。
「少し待っててね」
そう言って母親は、弟を抱き、ゆっくりゆらゆらと揺れる。弟の瞼はすっかり重たくなったようで、目がとろんとしている。口はだらしなくもかわいらしく、小さく開いている。手足はだらんと放られている。母親はその様子を優しい気持ちで見つめていた。しかし同時に、母親自身も着実に眠たくなっていく。目には目を、歯には歯を、眠りには眠りを。そう、これさえも姉弟の第五の作戦。母親はまんまと催眠術師の術中にはまっていた。度々、母親は少しばかり船を漕ぐようになった。
「姉ちゃん、ママ、少しだけ寝てもいいかな?」
「いいよ」
姉は快諾した。それもそのはずだ。すべては姉弟の作戦なのだから。そんなことも知らない母親は、最後まで寝付けていない弟を布団に寝転がし、その隣に自身も寝そべって添い寝を始めた。少しすると、弟の呼吸は寝息へと変化した。母親はその様子を見守る。と、ここに来て弟の最大の技、寝顔が繰り出される。これぞ、最終奥義とも呼べる、第六の作戦だ。乳幼児の寝顔は世の中の母親にとって、抗えぬ極大の癒し。この母親もご多分にもれず、弟の寝顔による癒しを間近で受け止めた。姉がふと目をやった頃には、母親も弟も既に寝ていた。弟はその身を呈して、母親を眠りに誘ったのだ。

 二、三十分ほど経っただろうか。むくりと弟が起き上がった。母親はすっかり寝ている。小さないびきをかきながら、正に熟睡。催眠術師の術が成功した証だ。
 弟がふと見ると、姉はダイニングからウェットティッシュを持ってきており、それで床を拭いていた。水で落とせるクレヨンで床に落書きをしていたのだ。弟はそのウェットティッシュを拾い、中身を一枚一枚引っ張り出す。姉はキレイになった床に再び落書きをする。弟はウェットティッシュを引っ張り出す。姉はまだ落書きを続ける。弟は延々とウェットティッシュを引っ張り出す。気づけば床には所々吹ききれなかった汚れが残り、ウェットティッシュは全てが引っ張り出された。
 次に、姉はおもちゃの買い物カゴを真っ逆さまにひっくり返す。すると、中身のおままごとセットの食材たちが無造作に散らばった。そうして、その内のいくつかを拾って、料理ごっこを始める。弟はおもちゃの食材を両手に持ち、しゃぶる。気づけば床には、よだれまみれのおもちゃの食材がいくつも散乱していた。
 その惨状は、母親にとっては地獄絵図と呼ぶに相応しい様相を呈していた。姉弟の作戦は見事に成功し、目的は達成された。そのもくてきとは、〈母親の目を気にせずに、好き放題いたずらすること〉だったのだ。

 そんな最中でも、母親は一人じっと眠り続ける。姉弟の癒しオーラを存分に受けて寝入ったおかげだろうか。起きたらきっと焦り強ばるであろうその顔は、とても柔らかく穏やかな表情をしていた。起きた時の部屋の有様など、文字通り、夢にも思わずに――。

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