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一日に三回は訪れるダイナソーとの死闘[私小説/短編]

 百獣の王である獅子でさえ、雄大に歩みを進める象には道を開ける。弱肉強食の生物界において、強大なる体躯というものは、最もわかりやすく最も優れた武器と言える。
 その恐竜もまた強大な存在である。しかし、その体長を測ることは叶わない。その恐竜が実体を持たないからだ。その名はダイナソー。ダイナソーが強大であり恐るべき存在であることは、実に明白である。それは、ダイナソーと対峙した者がこう口にしたからだ。「ダイナソーは大きくて強いんだよ」と。

 今日も今日とて訪れる不穏な影。少女の第六感はその気配を逃さない。誰より素早く察知した少女は叫ぶ。
「ダイナソーが来ちゃう!」
ダイナソーはまだ姿を現していない。厳密に言えば現す姿を持っていない。つまり見えない。それでもたった二歳のその少女は、まだ訪れていないその存在が、間違いなくこちらを狙っていることに気づいていた。
「隠れなきゃ!お家つくって!」
言われた少女の母親は、リビングのベビーサークルの一部に、まるで屋根のようにタオルケットを張った。小さな小屋が出来上がる。
「早く隠れて!」
少女は母親とまだ一歳にも満たない弟を、その小屋に招き入れる。
「ダイナソーに食べられちゃう!」
三人が小屋に入り切った。辺りは静かだ。少女は口元に右手人差し指を当てて、二人に静かにするよう促した。嫌気がさすほどの静けさの中、三人はじっと息を潜める。それから少しして、
「ダイナソー来ないんじゃない?」
母親が小声で言った。
「ダイナソー来るよ」
少女は、自身の第六感が告げる通りに話した。少女の第六感は正しい。今まで何頭ものダイナソーと対峙したことで、その精度が上がっていったのだ。少女がこれまで対峙したダイナソーの数、実に日毎に三頭以上。そう、少女は一日に最低でも三回はダイナソーと死闘を繰り広げる、そんな日々を送っているのだ。

 〈ガオォォ……ダイナソー……!〉
 ダイナソーの咆哮が轟く。この日一度目の襲来だ。少女と母親は慄いた。弟はじっとすることに飽きたのか、小屋の外に出てしまった。
「弟くん、危ない!」
少女が小屋から右腕を伸ばす。その時、掴まれた。いや、噛み付かれた。しかし噛みちぎることはしないようだ。大事なぬいぐるみを弄ぶかのように、甘噛みしている。ダイナソーだ。ダイナソーがその腕の主を確かめているのだ。これまで倒れた数々のダイナソー達の仇、忌々しい二歳の少女を探して。
「ダイナソーだ!」
少女は声を上げつつ手を引き抜いた。ダイナソーは確信する。いくら甘噛みと言えども、これはダイナソーの顎。そこから容易く腕を引き抜くなど、常人には不可能な所業。つまりこの少女こそ、探し求めた仇敵であると。少女の丸く大きな瞳には、頭上のタオルケット越しに揺らめくダイナソーの影が映っていた。実体のないダイナソーは何かに憑依し、それを核として具現化する。影が映っていると言うことは、既に憑依を終えた後、体を手に入れた後だと言うことだ。そのことに気づいた、刹那、ダイナソーがタオルケット越しに少女に噛み付かんと動き出した。
「キャァッ!」
少女の頭部が噛まれた、そう見えた。仇を討った、とダイナソーは思った。先ほどの瞬間、たしかに噛み付いた、そうダイナソーは感じていたからだ。少女はほどなくカーペットに倒れ込んだ。しかし、倒れた少女は平然とした面持ちでダイナソーの影を見つめている。その頭部には傷一つついていない。ダイナソーは噛み付けていなかった。噛み付いたと思い込まされていたのだ。少女は既に幾度となくダイナソーと死闘を繰り広げている。そして、ここまで生き抜いてきている。そんな少女ほどの強者となれば、一見噛み付かれたように見えるほど、一瞬噛み付いたと感じるほど、それほどまでに間一髪の状態からの回避が可能であるのだ。しかしながら、その一方で少女はまだ幼い。いくらダイナソーの攻撃を避けられると言えど、いくらダイナソーに勝ったことがあると言えど、その精神は未だ二歳児。ダイナソーと対峙する度、心にはおびただしいほどの恐怖が巣食う。
「ダイナソーに食べられちゃう……」
ぽつりと呟かれた小さな声。ダイナソーは聞き逃さなかった。
「ガオォォー!!」
タオルケット越しにひたすらに噛み付く。狙いも定めず噛み付く。何度も噛み付く。まるで乱撃のように噛み付く噛み付く噛み付く。
「キャアァァッ!」
少女はあまりの恐怖に我を忘れて叫んだ。慌てて左手を顔の前に掲げる。直後、ダイナソーの攻撃の一つが、今度は少女の左手を捕えた。
「イヤッ、やめて!」
最大級の畏れ、最高潮の怖れ、正しく畏怖。その感情を覚えたのは少女、ではなく、ダイナソーであった。色濃く胸中を支配するそれは、ダイナソーの顔を酷く強ばらせた。なぜなら、噛み切れないからだ。こんなにも幼い二歳児の小さく柔らかなはずの腕が、噛み切れないからだ。
「噛まないでぇ」
少女は怯えていた。このまま食べられてしまう、その恐怖に身を縮める。一方、対するダイナソーは完全に硬直していた。畏怖の念が強まる。ダイナソーの脳裏に自らが敗北する姿がよぎる。少女はそんなダイナソーの様子も露知らず、空いている右手で拳を握った。少女から何かが発せられた気がした。ダイナソーは嫌でもそれを感じ取る。その時ダイナソーの脳裏に浮かんだのは、自らの死。転がり落ちるように悪化する心象。ダイナソーの精神世界に於いては、疑う余地もなく少女こそが強者であった。その強大なる存在はあたかもサバンナの象。ダイナソーは獅子どころか鼠、いや最早、小さな一粒の砂のように萎縮していた。
「やめるんだ……」
そう呟いた少女は知らなかった。恐れ怯える気持ちの中で家族を守ろうとする心、それこそが自らの秘めたる力を引き出すための鍵であるということを。知らずして少女は、左手を捕らえているダイナソーの影をじっと見据えた。すると、少女の勇気が、闘志と変わって波動のように溢れ出た。同時に、握っていた拳を振り抜く。
「アー〇パーーーンチ!」
しかしその一撃は届かなかった。ダイナソーの硬直していたはずの身体は、少女の闘志の勢いに気圧され、後ずさっていた。しかし勇気を振り絞った彼女は躊躇わない。
「ア〇パンチ!ア〇パンチ!ア〇パーーンチ!」
猛攻、ひたすらの猛攻。ダイナソーは懸命に逃げ惑う。ダイナソーは自らが被食者になったことを痛感した。自らの命の灯火を消させるまいと、ただその一心で動いた。
「アー〇……」
言いながら、少女は再び勇気を振り絞る。それは闘志となり波動となり、そして少女の力となる。少女は家族を守るため、己を信じ、拳を信じ、勝利を信じる。
「パーーーンチ!!」
それは少女の全てを懸けた拳。正しく一撃必殺の拳。そうして振り抜かれた拳は、見事ダイナソーに命中した。
〈グオォォ……!やられたぁ……〉
ダイナソーの憑依が解けてゆく。息絶えた証拠だ。憑依が解けたそれは、少女の母親の右手だった。脅威は去った。右手は再び母親のものとなり、少女の家には平穏が訪れた。

 ここまで圧倒され、ひたすら傍観していた母親が、やっとの思いで言葉を発する。
「ダイナソー、やっつけたね」
少女は明るく笑みを浮かべる。
「やったー!ダイナソー、やっつけたじょー!」
すっかり屋根代わりのタオルケットがよれよれになった小屋から、少女は顔を出した。
「もうダイナソーいないかなぁ」
辺りを見回すが、目視できる異常はない。しかし、第六感に従って警戒を続ける彼女は、首から下を小屋から出すことはなかった。
「またダイナソー来ちゃうかもしれないねぇ」
少女は眉毛を八の字にして、しょうがないなぁと言わんばかりの顔をして言った。
〈ダイナソー……ガオォ……〉
やはり少女の第六感は凄まじい。
「えっ!?」
この日二度目の襲来だ。少女が小屋に隠れ切る前に、それは現れた。少女の視界にそれが入る。そのダイナソーは、体長三十センチ程度のア〇パンマンのぬいぐるみに憑依していた。
「ア〇パンマンのダイナソーだっ!」
少女は再び小屋に全身を入れた。母親は変わらず小屋にずっとおり、弟は小屋の外で他のぬいぐるみをもふもふしゃぶっていた。
〈ガオオオォォ……ダイナソー……〉
ア〇パンマンダイナソーは着実に小屋へと近づいていく。母親は息を呑んだ。あの頭部が菓子パンでできている国民的ヒーローでさえ、ダイナソーの憑依からは逃れられない。その事実に絶望していた。
「やめてー!ア〇パーンチ!」
少女の攻撃を、ア〇パンマンダイナソーは怯まず的確に避けた。そして素早く小屋の中へ侵入する。間合いを詰める。既に少女の眼前。
〈ア〇……パーンチ!ガオォー!〉
ア〇パンマンダイナソーは全く同じ必殺技の使い手であった。少女は顔面で攻撃を受けた、ように見えた。怪我はない。またしても間一髪での回避。まぐれだろう、と余裕綽々のア〇パンマンダイナソーはすぐさま次の一手を繰り出す。
〈ア〇パンチィ……!〉
やはり少女に傷はつかない。
〈ア〇パンチ!ア〇パンチ!ア〇パンチ!〉
「ア〇パンチ!ア〇パンチ!ア〇パンチ!」
互いに猛攻。ア〇パンチの応酬。飛び交うア〇パンチ、入り乱れるア〇パンチ。間合いは互いの攻撃範囲内、にも関わらず互いに攻撃は当たらない。
「ア〇パーンチ!」
少女が思い切り拳を振り抜いた。
〈グオォォー……!〉
攻撃を胸に受けたア〇パンマンダイナソーが、途端に苦しみ出す。ア〇パンマンダイナソーは身をもって少女の実力を知ることとなった。少女はその隙に最大限の力を込める。
「アー〇……」
できる限り込める。
「パーーーンチ!」
再び、少女の全てを懸けた拳が振り抜かれる。ア〇パンマンダイナソーはそれを顔面で受ける。避けられなかったのではない、避けなかった。ア〇パンマンダイナソーは刮目していた。目が離せなかった、離さなかった。恐怖が無いわけではなかった。しかしそれよりもっと勝るものがあった。それは、最大級の畏れ、最上級の敬い、そう畏敬の念。同じ技の使い手として、自らが到達し得ない域に少女が達していることを、ア〇パンマンダイナソーは認めざるを得なかった。だからこそ、少女のこの会心の一撃を見届けようと、見届けなければならないと察した。そしてそれを逃げ隠れせず、正面から受け止める、それこそが己に課せられた使命である、そう悟ったのであった。

 ア〇パンマンダイナソーだったそれは、カーペットに転がっていた。それは既に抜け殻。ただのア〇パンマンのぬいぐるみに戻っていた。またしても傍観に徹していた母親が、やっと言葉を発する。
「またやっつけたね」
少女は既に満面の笑みだった。
「ダイナソーまたやっつけたじょー!いえーい!」
〈ダイナソー……ガオォォ……!〉
母親と少女は目を見合せた。倒したばかりなのに、まさか、もう来たのか。二人は恐る恐る小屋の外を覗いた。そこにいたのは弟。その他には、何もいない。弟がこちらにハイハイで近づいてくる。
〈ガオォォ……!〉
ダイナソーは弟に憑依していた。赤ちゃんダイナソーの襲来である。
「赤ちゃんダイナソーだ!キャー!」

 少女の闘いは、終わることを知らない――。

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