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一年で気づいたことと、クソみたいな戦い方

上京してから、いつの間にか一年と二ヶ月が経っていた。ちょうど今日、一年と二ヶ月だ。

東京に来る前、もっと言えば、日本の中心にある演劇界に来る前、私は闘争心に燃えていた。必ず実力で成り上がってみせる、そして沢山の人たちに恩を返し、喜んでもらい、そして大好きな芝居を死ぬまで続けていくんだと信じて、前向きな気持ちでいっぱいだった。

さて一年経ってみて、どうだろうか。たった一年ではわからない部分が大半だということを差し引いて、感じた事の一つは「悔しい」だった。

売れることと芝居が上手いことは比例しない。実力は、モノを言わない。

よくよく考えれば分かることだったのだけれど、一年経ってようやく私の頭はそれを理解した。

東京には、人を感動させるスキルを持っているのに、正当な評価や報酬がなくて苦しむ役者が沢山いた。やりがい搾取というやつなんだと思う。費やすエネルギー、時間、お金。沢山のものを犠牲しながら、時には自分の体や健康すらも犠牲にして、作品をつくる役者の姿を見て、私は、とても悔しかった。

正当な評価の基準は分からない。でもこの世界はどこかおかしい。人を感動させるスキルは特殊な技術だと思っている。価値のあるものだ。それがほぼ無償でやり取りされている。りんご農家さんのりんごをお金を払わずに食べることはないのに、役者の表現力にはお金を払わない人が沢山いる。同じ考えが通用するはずなのに、何故だか、目に見えない技術にはお金が支払われない。実力が評価されないのだ。

そして、いつしか体を壊したり、心を壊してしまったりする。良い役者でも短命で終わってしまう、なんてことがこの街では平気で起こっている。この世界はどこかおかしい。

私は、私が本物だと信じた役者や表現者を守りたい。でも私には、それができるほどの権威も発言力も財力もない。力なき思想はただの綺麗事だ。何か人を納得させるような力があれば、守れるものがひとつ増える。かもしれない。

それなら私は、お金を稼ぐ。私に関わってくれた人やリスペクトする相手に対してきちんと愛を伝えられる人間でいるために。そして私が本物だと信じた技術を守るために、お金を稼ぐ。

金が全てとは言わない。

だけど、お金が解決できる事は世の中には沢山ある。これもその一つなんだ、きっと。

それでもやっぱり悔しい。こんなクソみたいな戦い方しかできないのが。結局、芸術の世界を金で解決しようとしている自分の浅ましさが恨めしい。せめてその力が、実力であればよかったのに。それすらない自分が一番、歯がゆい。

悔しい。沢山のことに対して、今、悔しい。

この悔しさが、何のバネになるのか分からない。そもそもバネなんぞになり得るのかすら分からない。でもいつか、この悔しさがなくなっていたら、それは私が一つ大人になったか、もしくは子供のような夢を叶えたかのどちらかなんだと思う。後者であれば、嬉しいのだけど。

いつか消えればいいのにね。この悔しさ。

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