本棚は心を保存し、伝える

皆さんは最近も紙の本を買っているだろうか。わたしは実はここ数年、紙から電子書籍へと移行しつつある。その理由は、今後の引っ越しの手間と収納スペースの節約というのが一番大きい。

紙は、とにかく重い。情報を届ける媒体としては、申し訳ないがとんでもなく効率が悪いと言わざるを得ない。軽いデバイス一つを持ち歩けば、(あまり良いことではないが)複数の本を同時並行で読み進め、気分次第で小説と新書を行き来することもできる。電子機器をあまり使わない私だが、購入してよかったと心から思っているものの一つである。

これまで紙の本の長所は読みやすさや質感だと思っていたが、最近別の側面に思い当たった。それは、他者と共有するという意味において、紙の本=本棚は特別な価値を持ちうるということだ。

私の実家には狭いながらも"書斎"とされている部屋があった。その部屋には漫画と小説と絵本が雑多に積み重ねられていて、父と母の趣味が境目なく融合した不思議な空間だった。棚に入りきらない文庫本は棚の前後で二層になっており、埃を被りながら片腕を突っ込んで分け入っていく作業には、考古学さながらの楽しさがあった。

今の自分の読書の癖は、間違いなく両親の影響を受けている。ミステリー好きは母の影響で、小説家の中では宮部みゆきの作品を最も沢山読んでいるが自分で購入したことは実は一度も無い。SFの趣味はおそらく父から引き継いだ。文庫本の地層の中にはアイザック・アシモフなどが埋まっていて、その奇妙なワクワク感は他のどのジャンルにも勝るものがあった。漫画についても、父が購入していなかったら子供時代に浦沢直樹や吉田戦車を読むことはなかっただろうし、柔道部物語にもカイジにも出会っていなかったと思う。(吉田戦車好きは同世代ではほぼ会ったことがない。)

これらの本や小説は、別に親から読めと言われて読んだわけではない。勧められたことも特に無かったと思う。とにかく時間を持て余している子供・学生時代に、なんか面白いもの無いかな、ぐらいで手に取ったのが始まりだ。でも今となっては、自分の嗜好や感覚にとんでもない影響を及ぼしている気がする。

本棚は、その人の価値観や好きなものをごく自然に、嫌味なくシェアする。私はあまのじゃくなので、人から勧められたものを素直に選ばなかったりする。並べられた本の数々は、そこに在るというだけの意志表示をする。主に選ばれたという前情報だけを付されて。

私の父は亡くなってもうすぐ8年になるが、時々また実家の本棚探索をしたいと思うことがある。どの本がお気に入りでどの本はつまんなかったとか、父の感想は今となっては分からない。でもただ、父が若いころにどんなものを読んでいたのかを知るのはちょっと面白い。

わたしが今後デジタルデバイスのみで読書をしていったらどうなるだろう。私が死んで、Amazonアカウントが凍結されたらその作品たちはネットの海に沈んでいくのだろうか。見ようと思えば一覧は見れるのかもしれない。でも、本が家族の空間の一部として在り続けることはできない。本棚は、ささやかにその人の人格を残し、伝える。

先日母が誕生日を迎え、散々迷った末に冒険写真家の作品集をプレゼントした。母とは海外旅行に何度か行っているが、今の状況では中々それも叶わず寂しがっている様子だったからだ。ネットではあまり見つけられない現地の人々の生気が宿った写真は、重くても紙で持つべき価値のあるものだと思った。加えてちょっと狡い考えだが、母が要らなかったとしても私が後々眺めたり、将来私の子どもにも見せてあげたいと、そんなことまで妄想してしまった。そんな中で思いついたのが、前述の内容である。

今のところ私は地元に戻る予定が無く、実家の家屋がどうなってしまうのか予想がつかないし、ましてや本の行く先なんて保障されようがない。子供の頃もよく漫画を売りに父と古本屋に行ったし、今実家にある本の多くは紙が茶色くなって取れかけているような年代物だ。彼らの運命や如何に・・

でもやはり、背表紙が語る物語は真に素敵である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?