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どんぐりが割れたはなし

日曜の朝、洗濯物を干してベランダから部屋に引き上げてガラス戸を閉めた時、カシャッと乾いた音がした。

足もとを見ると、サッシの隅でいつか拾った枝付き・帽子付きどんぐりがガラス戸に挟まれて割れていた。

自宅でどんぐりの殻が割れるのは初めての体験で、少なからず興奮した。しゃがんで見ると「実」は無傷だ。どんぐりの実「そのもの」をちゃんと見たのが初めてだったので、さらにどきどきした。

愛着のあったものが壊れて、新しい姿を見せた瞬間、自分が高揚していることがなんとも目新しく嬉しいできごとに感じ、記録しておきたくなった。

興奮冷めやらぬまま急いで仕舞ってあったざぶとんをひっぱりだして、その上にサッシから拾い上げたかけらたちを移動させてスマホで撮る。藍色に木の実の色がよく映える。発掘した遺物みたいでかっこいい。

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実だけも撮った。カカオっぽい。初めて見る姿に動悸。

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わたしは木の実や石や枝、つた、草木を愛でるのが好きで、グッとくるかたちや色であったりした場合、ときに収集癖を発揮し持ち帰って壁にかけたり棚に飾ったりすることがある。今回割れたやつは帽子付きなところと、枝の長さとどんぐりがぶら下がってる位置、それから枝の途中にある小さい「こぶ」がかわいくて、ぜんたい的にとてもすてきなフォルムだった。

その場にあるものを持ち帰ることは、ちょっといけないことをしている気分にもなったりする。けど、一番いいなと思うものを選んで、「ちゃんと大切に、可愛がるから」と心の中で言い訳してこっそり持ち帰る。しばらく持ち歩いてからなんとなく、もう大丈夫かなと思えたら、なるべくリリースするようにもしていた。

なんでそんなことをするのかと改めて考えるとわたしは「自分にとって一番ぴったりくる瞬間や現象や形状を見つけ、捕まえたい」のと、「その場で沸いた感情や気分を少しでも長引かせたい、味わいたい」という欲求からくるものと考えた。これは自分にとって、写真を撮ることと似てるのだと思う。執着ともいう。

家の窓辺カオス

大事なことに集中するためには、それ以外のこととは距離をとる。ものであれば、より厳選して選ぶ。何であれシンプルなほうがいい。最近改めてよく考えること。離職もそのひとつだった。今一番の優先事項は何なのか。繰り返し自分に問う。それを間違うと、大切なことを台無しにしてしまう恐れがあるから

わかっていても心は切り替えが難しいところではあるのだけれど、とにかくまわりのものとの距離や関係性を変えていきたいと思う。なんの話だ。つまり、これからの自分の人・モノ・コトとの関わり方が移り変わるべきときが来ていると思う中で、”どんぐりの実が割れる”との遭遇はおもしろい”サイン“に感じた出来事だったのだ。

離れた友人とチャットで断捨離の重要性について会話していた折、「ゆあさはずっとものに囲まれてるイメージ」と言われた。わたしもそう思う。自分は複雑さや乱雑さ曖昧さを好んだり、集めすぎては忘れたり無くしたりするところがある。姉からしたら(しなくても)「だらしない」の一言で一蹴されるだろうけど、これが私の個性だとも思ってる。

良い悪いは置いといて、いよいよ変わらなければと思う。もう十分混乱し続けたし、めんどくさがりなのも負の連鎖を生み続ける。忘れたふりをしたり、諦めるのもやめにしたい。多くを手放しても「私」はきっと変わらないし、変化を楽しめると思えるようになったから。

どんぐりのことから、なんとまあ長文になってしまった。
文章も、もっとシンプルに書けるようになりたい。これが今の私。




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