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なりたいものになった二人

 小中学校の同級生には個性的な輩が多いのだが、その中でも、なるほど!という職業についたHさんという女性がいた。
小中学校というのは日本の反対側にあるサンパウロ日本人学校のことなのだが、日本全国から駐在で渡伯したビジネスマンの子供が通う学校で、北海道訛りやら群馬弁やら関西弁やらが入り混じるという、今思えば日本の縮図みたいな一面をもった面白い学校だった。

なにせ僕は「ナマラおもしれー」「俺が使ってたんダガニー」「シバイタロカ」など、様々な方言をここサンパウロで覚えたのだから、、、

当然先生方も色々な所から来ていて個性的な人が多く、今でも交流がある先生もいる。なにせこの学校での思い出は鮮やかだ。

さて、そんな所で同級生だったHさんは自分も先生になり、UAEのアブダビ日本人学校に赴任する事になった。海外の日本人学校の先生になるのが幼い頃から夢だったという。
ときは1998年、社会人5年目の事だった。

凄くストレートに、「やるなあ」と思ったし、「あの頃の自分達に今度は教える仕事」に興味が湧いた。自分に置き換えてもワクワクするし、UAEにも興味があった。

僕はそのころ駆け出しだったが目指していたプロのフォトグラファーになっていて。海外に作品を作りに行くのが楽しくて砂漠にも行ってみたいと思っていたところもあり、、彼女がUAEに赴任して半年程たった10月、勢いで「遊びに行きます」とメールを打ったのだった。

Hさんの兄と僕の兄は同級生で、二人はかなり仲が良かった。僕らはと言えば、、特に仲が良いわけでも無く、兄同士を通じて「の妹、の弟」という共通認識があるぐらい、Hさんはおとなしいけど、芯が強い。という印象の子で、兄同士の繋がりで存在は記憶にしっかりと残っていたが、それ以上は実はなにも知らず、、、

そんな僕からの「行きます」
というメールに彼女は驚いたようだった。
でもまあ、送別会でも遊びに行くよーって、言っといたし(みんな言ってたが、、)

かくして、大きなザックにカメラを詰め込んで本当に砂漠の国へと出発したのだった。

さて、手続きの不備などいろいろ問題があって入国できず。2日近くドバイの空港内で足止めを食ったがなんとかなり、待望の砂漠の国にたどり着いた。まだ強烈な発展を遂げる前のアラブの国である。

しかし、こんなに暑いのか、、ホテルから出たり入ったりするたびにカメラと眼鏡のレンズが温度差で白く曇る、、

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約束どおりHさんはアブダビから僕が滞在しているドバイまで来てくれた、というかドバイで日本人の職人がお寿司を握るイベントがあり、アブダビ日本人学校の先生や生徒と一緒にごっそりドバイに来ていたのだ。僕もそのイベントから参加させてもらう予定だった。

会場では、「H先生の幼馴染の男性が日本からわざわざ会いに来た、なんでもカメラマンらしい、」という話がひろがり若干のザワつきがあり、、子供達は親に遣わされたのか先生から指令を受けたのか「ねえ、南雲さん、先生と結婚する人?」とすごく素直に聞いてきて笑ってしまった。
まあ、そう思うよなあ、ごめんHさん。

次の日にその大勢と一緒にハッタという美しいオアシスに行った。そこはUAEで唯一の淡水が流れている、エメラルドグリーンの水が本当に美しい渓谷だった。海の水は熱いお湯なので泳げないのだが(お風呂みたいなものらしい)、ここの水は冷たいので泳ぐ事ができるという。 

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何人かの先生達と一緒に上流に向かって細い谷川を泳いだ。
「冷たい」と言ってもぬるい程度なのだがのぼせずに十分に泳げる、そして水の透明度が信じられないほど高い。僕達は一列になって細い谷川を泳いで遡って行った。くねくねと細く狭く切り立った岩場の隙間をゆっくりと進んでいく。

真上から垂直に差し込む光が水中で光のカーテンを作ってオーロラのように舞い、そこにはたくさんの魚が泳いでいた。
揺らめくエメラルドグリーンのグラデーションが視界いっぱいに広がり身体中を包む、可愛い熱帯魚がキラキラと輝きを見せつけながら通り過ぎていく。息が苦しくならなかったらこのまま溶けてしまいそうだ。

こんなに美しい空間があるのか、と水中でなんどもため息をついた。あの時の水景は本当に鮮明に目に焼き付いている。
砂漠の国にきて思いもよらぬ経験をする事ができた。もう少しで水中カメラマンに転向するぐらいの(笑)

ここは当時ガイドブックにも旅行会社のパンフレットにも載っていない、まさに秘境の類いだったと思う。本当に綺麗な場所だった。

またもう一つ素晴らしい思い出となったのはアブダビ日本人学校のみんなとの交流、子供達のイキイキとした顔、先生達の充実感に溢れた表情。自分もこんな子供だったのかなあ、と懐かしくなり、ちょっと目頭が熱くなった。危ないときはカメラで顔を隠した。
みんなと記念写真を撮り、Hさんの写真も撮らせてもらった。本当にいい表情をしていて、幸せが滲み出ていた。
「これが見たかったんだよ」

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念願の砂漠の国でオアシスにも連れてきてもらい、なにより夢をつかんだ幼馴染に会えたのだ。いい旅ができた。

帰国して、写真を整理してからHさんに、ちょっと一緒に作品を作らないかと提案した。それは僕がUAEで撮影した写真にHさんに文章をつけてもらい、それをホームページで発表するというちょっとしたコラボレーション企画だった。 

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まずは僕が撮った砂漠やオアシスの写真を送って見てもらった。どんな文章にするか少し考えていたようだったが、しばらくして凄く大切にしたくなる文章が送られてきた。

自分が先生になってここに来たこと、幼馴染の男の子が急に来ることになったこと、その人はカメラマンで、ちょっと行動が興味深かったこと。ハッタでの出来事、それが小学校の先生らしい素直な文章で綴られていた。

そして僕の心に一番響いたのは、僕たち二人に対して

「なりたいものになった二人」

という言葉が使われていたこと。そうか、これが今の僕らか。
「の妹、の弟」は、ここに晴れて新しい共通点ができたのであった。

日本人学校教師とカメラマン
「なりたいものになった二人」

「いい響きじゃないか!」
僕の心の中に、あのオアシスで2人で感じた一筋の風がふいた。

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以下Hさんの文章

「出会いなんだよなあ。」という返事だった。
何の答えかというと、彼と写真のこと。
 
 私たちはRAV4に乗りながらダート道や小さな村々を走っていた。
 ある村で、山羊の群れが、とととと、と、漆喰の白壁の家の間を通っていた。彼は「あ!」と言って写真を撮った。
 ふーん、やっぱり珍しくて、こんなもの撮るのかなあ、と思って私は運転を続けた。
 少し運転してから、又山羊の群を発見。私は気を遣ったつもりで減速をした。でも、彼は撮らない。
「撮らないの?」
「うん。撮らない。」
彼ははっきりした口調で言った。
「どうして?」
彼はうーん、、、、と、少し間をおいてから、
「撮るか撮らないかは、出会いなんだよなあ。」
と、答えた。
 

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カメラマンという人を見たことがなかった私にとって、彼のUAE訪問は、へえ~、と思うことばかりだった。
 
 U.A.E.はすごく小さな国。日本語ではアラブ首長国連邦。中学の時に「ずいぶん長い名前の国やなあ。」と思って暗記して以来、縁もなく、考えたこともない国だった。だが、私は日本人学校の教諭として、この国に派遣されることになり、3年間滞在することになった。赴任してから半年たった頃だった。
 
彼は突然やってきた。
 
何でそういうことになったかというと、私も彼と同様、ブラジルサンパウロで小学校、中学校時代の数年を過ごした。当時の彼とはとくべつ仲がいい友達でもなく、明るい男の子だったよなあ、という印象があるくらい。帰国後も同窓会で会うだけだった。
だが、私の兄と彼のお兄さんが、仲がよく、帰国後も大人になってからも時々連絡をとっていたようだった。偶然にも両兄とも同時期にアメリカで仕事をしていた時期があった。
アメリカ内で車飛ばして会っていたらしい。だから、噂はなんとなく兄から聞いていた。私の中では、自分の友達というよりは、「兄ちゃんの友達の弟」というような認識のほうが強かったと思う。
なのにだ。かれはUAEにくるというではないか。彼にとってみれば、私という知り合いが砂漠の国に行った。いつか砂漠のある国に写真をとりに行ってみたいと思っていた。ちょうどいいし、知り合いのいるところに行ってみようか、ということなのかな、と思った。
 
そして「UAEに行きます」というメールを送ってきたのだと思う。当時は赴任して半年くらいの私にとっては、身内以外では記念すべき初の来客だった。その初の来客が、「兄ちゃんの友達の弟」ということになんだか変な気分。
兄たちはアメリカで会い、弟妹はUAEで再会するというなんとも不思議な、縁のある関係だなあ、と思った。どちらのきょうだいにも共通している性格が多分、「行動的だから」ともいえるけど。そして、「なりたいものになった」ということだ。カメラマンと、日本人学校教師。なりたいものになった二人が、U.A.E.で会ったということ。

彼がやって来たのは、10月。50度近い真夏に比べたらちょっと涼しくなったとはいえ、毎日40度を超す。その上、湿度は、80パーセント以上。なのにだ。雨は降らない。毎日が天然のサウナみたいなもの。日本からやって来る人には、ものすごい酷暑だったと思う。
 
UAEは砂漠の国というのは間違いないのだが、「海と砂漠の国」と言った方がしっくりくる。
 
砂漠とオアシスに向かってドライブする途中、海岸に寄った。私にとっては、青い空と海があるだけでの海岸で、彼は写真を撮っていた。 

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私は、今日もかわらず、あっついなあ~、と、だらっと、砂浜に座って青い空を眺めてた。
暮らしていると、毎日毎日代わり映えのしない、真っ青な空が恨めしくて、泣きたくなる日もあった。U.A.Eは年に1,2回しか雨が降らない。
 
舗装道路から離れた、奥まったところの砂丘のてっぺんに座っていると、「っひゅうー」というような、「何にも音がしないという音」が聞こえる。人によっては「しーん」とか、「さぁー」かもしれない。と、かっこつけて思いにふけっていると、顔が砂だらけになっているのだ。

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彼が皮の茶色いワークブーツを履いているのが印象的だった。
砂漠の砂が入らなくていいけど、重そうで暑そうだなあと思った。それに、砂が入ったらそのたびに脱ぐのがめんどうそうだな、とか妙なことを思った。
 
UAEで身近にはワークブーツをはいている人は見たことがなかったせいか。
それに、足になじんでいそうなブーツで、これで、この人はいろんなところを旅してきて写真とってきたんだろうなあ、って感じさせるブーツだったから。
でも、UAEに限っては、多分ほとんどサンダルに履き替えていたに違いないと思うけど。
 
田舎のオアシスに行った。草木のあまり生えていない岩山が連なるオフロード。オフロード車じゃないと、アクセスが少しきつい。
日本人の感覚からすると、砂漠の真ん中に突然水が湧き出ているのがオアシスだと思う。でも、岩山の間に川みたいなのが流れているのが、UAEのオアシスだ。
UAEでは年に数えるほどしか雨が降らない。なのに、オアシスはすっごくきれいで澄んでいて、UAEでは珍しい「冷たい水」が涌いている。ふしぎ。
 
度胸だめしなのか、地元の子供たちが数メートル上の岩からジャボーンと飛び込んでいたのをよく見かけた。
 
このあたりを女である私が普通に水着を着て、ばしゃばしゃ楽しんでいると、いつ行っても、どこからともなく地元の男の人たちがわらわらと集まってきた。
 
UAEはイスラム国家で、イスラム女性は普通肌を見せてはいけない。水着着て人前で泳ぐなんて現地の人にとってはもってのほか。外国人には寛容なので水着で泳いでいるからといっておこられたりはしない。でも、女性の水着を見慣れない田舎の現地の男性にとっては、水着を着ている女がいるだけで見たくなるらしい。
 
街なかでは私を含め外国人女性は肌を隠さなくてもいいので普通に洋服を着ているのだけど。現地の女性は肌や髪の毛を隠す装束を身にまとっている。水着なんて彼らにとってみたら、裸でしかないと思う。
いつ行っても、周りに家もないのに、どこから見ていたのか、男の人が何気に遊びにきた風に、泉にやって来たんだよなあ。
 
岩でごつごつしたオフロードを私の車で走っていたら、道なき道に迷いこんでしまった。
目的地は私の同僚たちが水浴びをしているはずのオアシスで、場所や方向はわかっているのに、車が言うことを聞かなくてなかなかたどり着けない。はじめは私が運転していたのだが、ついに彼が運転してみることになった。私は運転が得意じゃないので任せた。
車好きの彼は岩山を越えようと嬉々として運転で楽しんでいた。車がつぶれるのじゃないかと思うような、窪地や石を超え、なんとかパンクせずにたどりついた。UAEのオフロードを運転していると、日本と違って「本物のオフロード」なのでパンクが怖い。

 今まで私はカメラマンという職業の人に出会ったことがなかった。このカメラマンという人は、とりたい場所に行くと突然足取りが軽くなったように、ぴょんぴょん飛び跳ねてどっかへいってしまう。
さっきまで隣でしゃべっていたと思ったのに、気がつくと、ずいぶん遠くのほうへ小さく姿が見えていたりする。小学生の子供みたいに、嬉しそうに岩と岩の間を飛び跳ねて超えていた。
 
同行しながら私の写真や同僚の写真をたくさんとってもらった。私が持っていた普通のカメラでも撮ってもらった。

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 撮ってもらった中でもすごく気に入っている写真が数枚ある。砂漠(草が生えているので土漠ともいう)の中でとってもらった写真。
彼がやってきたのは、日本人学校教師という職に就いて、もううれしくて仕方なかった時期。毎日が充実していて、なりたかったものになれたという達成感があって、幸せでしょうがなかった。それが写真全体から、ぱあっと出ているような写真に思えた。

私は本当に写真のことはわからないけど、こうやって、あるものの真実というか、表面だけじゃないものを切り取れるってすごいなあ、と、思った。そして、私の人生ですごく愛すべき時期を撮ってもらえてすごく幸せだなあと、カメラマンに感謝した。
 
私はこんなことも聞いた。 
 
「どんな写真をとるのが好きなの?」
「人の写真をとるのがわりと好きかな。」
「なんで?」
「人の内面が出るような、その人の生き方とか、人間が出るようなところが好きだし、そういうのを撮りたい。」
 
私がそのお気に入りの一枚を見たのは、彼の帰国後だった。
はあー、なるほどなあ、と納得してその言葉を思い出していた。
 

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プロフィール 
ブラジルに行くまで大阪で育ち、小学校4年から中学2年まで、サンパウロで過ごす。その後大阪、山梨、兵庫で育ち、大阪府小学校教員となる。98年から3年間、アラブ首長国連邦(U.A.E.)アブダビ日本人学校に勤務する。帰国後は再び大阪府で教師をしている。

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