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バイオリニストとフォトグラファー

 なんであの時代(1970年代)に、あんな片田舎でバイオリンを習う事ができたのか、いま考えれば運命的というか、たまたまと言うか、色々な偶然が重なったのだろう。近所に越してきた同級生の女の子のお父さんがバイオリ二ストで、近所の子供達に教えてくれる、
と言うことだったと思う。

丹沢の麓の、でっかい日立の工場のすぐ近くにある小さな住宅地、そこが僕がバイオリンを始めた場所だ。幼稚園に上がるころだから3歳ぐらいだったのだろう。
そのバイオリンの先生は色白な細面の繊細な感じの人で、今までに会った事のないタイプの大人だなと、3歳ながらにして思った。
バイオリンを始めたのは、母親に「やる?」ときかれて、「やる、」と言ったような言わないようなよくわからないうちにレッスンが始まっていた気がする。まあ、そんなもんだろう。特に拒否反応もなく、ただのめり込む訳でもなく、レッスンは続いた。

きらきら星からはじまり、ミニヨンのガボットを覚えたぐらいで父の仕事の関係で日本を離れることになり、僕は小さなバイオリンをかかえて母と兄と一緒に父の待つブラジルに渡航した。

 渡航先のサンパウロでもなるべく習い事は続けよう。という事で現地でバイオリンの先生を見つけ、また小学校一年生から始めていた剣道も道場に入門した。どちらも練習は大変だったが、バイオリンはとくに毎日の事だ。譜面台を立ててその前に立ち、音を出して練習しなくてはならないのでサボるとすぐにわかってしまう。

またバイオリンというのは「弾く形」がかなり難しい。手に持っているようでじつは左肩と顎で挟んでいるような状態で本体を浮かせている。お陰でほぼフリーになった左手で運指を行うのだが、捻られた状態の手首でフレットのない細いネックの上の弦を押さえ、耳だけを頼りに正確に音階を奏でるのは簡単な事ではない。

右手は弓で弦を弾く(ボーイング)のだが、弦に対して直角に上下する運動は手首や肘、肩に動かしたことのない可動域や力加減を求めてくる。しっかりその形でやらないとそれがモロに音にでる。家族にも練習の音は聞こえるし、実はかなりのストレスだった。

母は熱心に先生の所に送り迎えしてくれた。(それは今になって本当に感謝している)年月を重ねそれなりに弾けるようにはなっていったが、うーん、正直楽しくはなかった。ただ特殊な文化の中に身を置いている感があり、それは自分を強くしてくれたような気がする。

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僕の教わった先生は日本人だったが、生徒の殆どは日系二世で顔は日本人だが日本語は片言という子達だった。バイオリンオーケストラでその中に入った時の違和感は未だに忘れられない。

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中学生になると難しい曲も弾かなくてはならないし、コンサートもソロで出なくてはならない。
そもそも気が小さく、ステージに上がるだけでものすごい緊張に襲われた。それでも幼い頃からの宿命のようにバイオリンを弾いていた感じがする、途中で止めることには少し後ろめたさと言うか、負けた感があったからだとも思う。

中学生の時、サンパウロ美術館の立派なコンサートホールでソロで弾いたというのはいい経験にはなった。これは続けた事の勲章として持っておこうと思う。

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 普通に流行りの音楽を聴くのは好きだった。お気に入りのミュージシャンのレコードを買い集めたり、友達から借りたテープをダビングしたりと凄く楽しんでいた。
しかし聴き始めたロックやポップス、ボサノバと、自分がバイオリンで弾いているクラシックが全く結びつかない。同じ音楽だということの認識がないほど、それは自分のなかでかけ離れたものだった。

ある日、なにかのレコードをきいていてバイオリンのフレーズが入っている曲があり、ハタと思った。

「好きな曲をバイオリンでひいてみたら、少しは楽しくないか?」

「やってみよう。」

カルチャークラブの曲をかけながら耳でコピーし始め、メロディーをおいかける。意外と弾ける!

ああ自分の楽器でも好きな音楽やってもいいのかあ、とちょっと目から鱗が落ちるぐらいの発見。

そんな事をはじめて本当にすぐ、少し楽しくなってきた矢先にそれは起きた。

その日も同じように練習ではなく、趣味のバイオリンとして(練習ではないので若干の後ろめたさはありつつ)カルチャークラブの曲を練習していたところに突然、四歳年上の兄が乱暴に部屋に入ってきて、そしてイラついた声でこう言った。

「うるせえっ!」

体がビリビリと恐怖で震えた、そして脱力感につつまれた。

兄は日本人学校を卒業し、現地のアメリカンスクールに通っていたが、なにせ勉強がたいへんで、毎日顔が紫になるほど勉強していた。家族でも腫れ物を触るような存在になっており、、彼は彼で凄まじいストレスの中にいた。

そんなところに、弟が能天気にバイオリンで遊んでいる、下手くそにカルチャークラブなんか弾いてやがる。それが癇に障ったのだろう。まあ、彼の努力奮闘ぶりを見ればそれは致し方ないと思った、あの優秀な男があれだけ苦労しているのだから。。

悲しくて、悔しかったがそんな風に兄の行動を理解すると、僕はもう二度と好きな曲を弾こうとは思わなくなった。練習しなくてはならないという免罪符をもったクラシックを、淡々と続けていった。

中3で帰国して、もうバイオリンはやめてしまった。楽器は持って帰ってはきたが、また大きな日立の工場の前のちいさな住宅地に戻ってきたので。そこにはバイオリンの先生はいなかったし、一応受験生でもあった。
やめてしまった事に関しては、すこしの申し訳なさと、やりきれなかった悔しさと、解放された安堵感があった。
そして、大きな傷も抱えていた。

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サンパウロから持ち帰った楽器

サンパウロから持ち帰ったバイオリン

高校でカメラに出会い、写真にのめり込み、結局プロになってしまった。迷いも選択肢もなかったので、今となっては気がついたらなっていたという感じなのだが、バイオリンにはやはり蟠りのようなものがあり、普段でも聴いている曲にバイオリンのセクションがあると反応してしまう。なにか、まだ自分との繋がりを感じてしまうのだ。それは誇れるものではない、中途半端に染み付いた不完全なシンクロ接点だった。

今フォトグラファーをやっていてどうしてもミュージシャンを羨ましく思う事がある。

それは「ライブ」だ。

自らの演奏で観客と一体になり、その時間を駆け巡り、共有する。フォトグラファーにはこれが出来ない。ここだけはいつも歯がゆい思いをしている。

写真なりのライブは撮影の時で、それはそれなりに盛り上がるが作品ができる前にライブは終わってしまうし、そこにオーディエンスはいない。
モデルとのセッションなど、写真にも色々あると言えばあるのだけれど僕がやりたいのはあのミュージシャンが観客と一体になって作品を演奏するライブなのだ。

もしあのとき、あのバイオリンが楽しくなりかけた瞬間、兄が苦言を呈さなければ、バイオリニストになるという道もあったのかなあと思う事がある。そうすれば今欲しているライブ感が得られたのかもなあと、まだモヤモヤした気持ちが残っていた

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虎目のネックが美しい


まあ、今言ってもしょうがないし、そんな音楽の才能は無かった可能性が高い。この人生は写真を軸にした人生と決めて生きているではないか、そうだ、あの時人生の岐路にたっていたのはむしろ兄の方だったのかもしれない。。
だからもうグダグダ考えずミュージシャンになるのは来世にとっておこうと思うことにした。

バイオリンは自分の撮影の小道具としてたまに登場させているが、今回ちゃんと気持ちを整理するつもりで企画を1つ考えた。
いま僕が写真雑誌で連載しているスチルライフ撮影のページが最終回を迎える。その最後の被写体にバイオリンを選んだ、楽器を前にバイオリニストとしてではなく、フォトグラファーとして正面から対峙するのだ。

撮影しながらバイオリン改めて感じる。美しく、攻撃的なフォルム。ちゃんとやれなかった気持ちを撮影にぶつけ、全霊を持って繊細なライティングを施す。本気で撮影したその楽器の写真は、バイオリニストになれなかった自分へのレクイエムとなった。

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Still Life Imaging 玄光社より
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Still Life Imaging 玄光社より

そしてすこし、なにか許して貰えたような気がした。

今回の人生はフォトグラファーとして頑張るよ、精一杯ね、後悔なんぞするものか、それが唯一の、僕の覚悟なのだから。


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