見出し画像

世界一普通の人間

ある写真家の先輩に自分のポートフォリオを見せた時に
「これだけ個性を殺して仕事に徹した撮影ができるのは凄い」
と言われた事があった。

当時は何を言われているのか分からず、聞き間違いかとも思ったのでサラッと流したが、ちょっと心に引っかかっていた。

見せたのはイタリアやフランスの風景写真で、仕事で撮影したものだ。自分では気に入っていてクライアントからも好評だったので自信満々で見せたのだが、

画像1

「個性を殺して、、?」

クリエイターと言えば個性である。みたいな言われ方をするが、つまりあなたはクリエイティブでは無いですね、と言われたという事だ。。

たしかに。僕が修行を積んだ商業写真の分野ではライティングやアングルなどテクニカルな部分でいかに上手く撮るか、と言った要素が強く、引き出すのは自分の個性では無く撮影商品の個性だったりする。

画像12

風景やスナップ写真もそうで、僕はその雄大なる自然や、街角で起きた決定的瞬間は、それ自体の魅力を最大限に引き出して撮ることが大事だと思っている。逆に、自由に思うがままに撮るとそういう撮り方をしている。

画像5
画像6
画像7

それを個性的では無い、と評価されるのもズレていると思うし、決してこの撮り方は簡単な事では無いと思うのだが、

うーむ。。

画像2

写真が個性的ではないと言われると、。。それはそれで嫌だなあと思った。では僕らしさって、なんだろう。どう言う個性があるのか、それとも、ないのか。

結構真剣に考えた。

まず、芸術家のような天才的個性、ダリとかピカソとか、あんなとんでもない個性、というか才能は僕には無い。

くそまじめにテクニックに傾倒し、ごく微細なライティングの違いを追求し続ける辺境の戦士でもない。

やはり、好きなものに正面から対峙し、じっくり撮影してその良さを引き出す。と言うのがやり方だ。そこに自分があるのかどうか、

画像8


いや、そうではない。
個性だなんだの前に、僕がやりたい事は何だ、そこに答えがある。

プロとしての使命もそうだし、一写真家としても僕のやりたい事はこうだ。

多くの人に見てもらい、より多くの人の共感を得たい。僕の写真を皆んなが見て「良いなあ」って何かしらの心の動きがあってほしい。それに相応しい被写体の前に立ち、伝えるべき物をしっかりと写しとりたい。

画像9

そんな思いで撮影している。
どうすればそれが出来るか、それは

「世界一普通の人間でいる事」

世界中の沢山の人々と共感できる物を作るには、世界中の人々の価値観の最大公約数的価値観を持っている事、その価値観をもって作品を創る事が一つのやり方だと思った。

つまり、「世界一普通」でいればいいのだ。それならなんとなく自信がある。世界中を回って吸収した様々な価値観が僕を形成している。
これは、逆にけっこう凄いことにじゃないだろうか。

画像13

今の僕の仕事は、あるグローバル企業のwebサイトで世界中に配信する為の写真を撮影し、より多くの人にその写真からその企業の商品の良さを感じてもらうことがメインになっている

写真は世界中の風景が多い。
(裏コンセプトとしては商品だけではなくて地球の素晴らしさを伝えるということも)
僕の名前がそこに出ることはほとんどないが、それはもう15年以上続いている。「上手くいっている」と言っても良いのではないかと思う。

そんな訳で僕の個性は

「世界一普通」の感性を持って、多くの人に受け入れられる作品を撮れる。

という事にしようと思う。

画像10


なんだかよく分からない話かもしれないが、そんな人がいてもいいだろう。それに、そういうクオリティーの作品を実際に「つくる」行為自体は普通の動きではできない。そこにはガッチリしたプロフェッショナルの領域が存在する。 、

先日も上司に写真を見せていて
「色んな所に行くけど、自由に作品を撮れなくてかわいそうだ」と言われて、ここにもいたか、と思った。

僕は自分が良ければいいとか、なんでこの良さが分からないんだ、というような個性とも呼べない自慰的な写真を撮るつもりはない。

大体こういう事を言う人は独りよがりの見るに耐えない写真しか撮れない人が多い。
大自然の雄大さや、人々の生きた表情を前にしてクソみたいな「俺の個性」など要らないのだ。

必要な事はどれだけ真っ正面からそれを受け止めたかだ。大事なのはその素晴らしさを感じとる感性だ。

画像3

僕の心は自由に世界を飛び回り、最高だと思ってシャッターを切っている。極東の小さな事務所で組織に縛られてシャッターではなくハンコを押してカメラマンづらしているあなたのほうがよっぽど可愛そうだ。

そういえば以前僕を引っ張り上げてくれた藝大出の大先輩がこんな事を言っていた。

「お前の下手くそな絵なんか誰も見たくねーんだよ、お前のクソみたいな感性なんてクソの役にもたたねえんだ、って自分で手を動かしたいって言ってる若いデザイナー気取りの奴に言ってやってるんだ。」

クソまみれである。

ここはプロフェッショナルの現場である。だれでもやりたいからやれる訳でないし、そこに立つ人はそういう覚悟でやっている人だ、と言っているように聞こえた。

少し、自分の考えや立ち位置が守られたようで安心したのを覚えている。

僕は、普通に見たら個性的ではない、特別な独自の感性も自分では全く感じない。
でも、自分のやる事に迷いはない。何十年もかけて様々な物を吸収し、磨いた感性や審美眼をもっている。

画像11

近い人の意見に一喜一憂して傷つく事もあるが、これもまた普通の感性の為せる技なのである。下手をすれば普通の人より傷つきやすいかもしれない、いちいち気にしなければ楽なんだとも思うが、

けして鈍感にならず、でも目の前のことに流されず、

「悠々として」

これからも世界一普通の人間を目指して生きていく。

一人の写真家として、被写体に向き合い、自らが愛し感動した瞬間にシャッターを押す。

そして一人のプロフェッショナルとして、多くの人が素晴らしいと思って心を動かすような、特別な物を作りたい。

いい歳をして、目標は遥か彼方だ。

画像4


この記事が参加している募集

カメラのたのしみ方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?