見出し画像

毎週ショートショートお題 「天ぷら不眠」


 男は幻聴に苛まれていた。
 天才ピアニストとして世界中から称賛を浴びる日々の中で、観客から男に向けられる拍手の音が、耳の奥でずっと鳴り続けているのだ。
 それは男がベッドで目を閉じても変わらなかった。暗闇の中でいつまでもパチパチと拍手が頭に響き続けていた。

 その原因が周囲からの過度なプレッシャーやストレスだと男は分かっていた。しかし同じように男は立ち止まれないことも理解していた。

 眠れぬ日々が続く中で、久しぶりに日本に帰国した男は親しい友人と天ぷら屋で食事をした。
 カウンターで日本酒を飲みながら友人と話していると、また幻聴が聞こえた気がして男は動揺したが、それは拍手の音ではなく大将が丁寧に天ぷらを揚げる音だった。

「まるで天ぷら不眠だな..」

 男は自虐の笑みを浮かべ、日本酒を飲み干した。
 久しぶりに会った友人との会話は弾み、大将の揚げる心のこもった天ぷらはどれも絶品だった。男は数年振りに心休まる時を過ごした。

 ホテルに戻りベッドで目を閉じると、またパチパチと耳の奥であの音が響きだした。でもそれがあのサクッとした天ぷらを揚げる音だと想像したら、とてもおかしくて軽やかな優しい音に聞こえた。
 気付けば朝になっていて、男は清々しい気持ちとほんの少しの胃もたれを感じていた。


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?