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五感

 私は恋人のことが好きだ。とても好きだ。
 好きな部分は枚挙にいとまがない。顔、声、性格、態度、その他もろもろ。我ながら気持ち悪いが、恋人の好きな部分を列挙して一夜を明かせる自信がある。

 そんな数々の好きな部分の中で、私が特に好いているのは、恋人の体温と香りだ。
 恋人の手はいつも私より少し温かく、冷え性の私の手を温めてくれる。手を繋ぐと恋人の体温で私の手が溶けていくような感覚になり、手を離すとすぐにその温度は冷めてしまう。でも、再び手を繋ぐと恋人の体温がチャージされる。こんな感覚まで含めて、私は恋人の体温が好きだ。
 香りに関しては、もうなんと形容していいか分からない。シャンプーでも香水でも洗剤でもない、「彼の香り」としか形容できない、えもいわれぬ香りがする。いわゆる「いい匂い」ともちょっと違うし、他の香りに似ているなどと形容できるものでもないが、無性に心地よい香りがするのだ。恋人の家に入ると、家全体からその香りがしてたまらない気持ちになるし、外で恋人と会っている時には、さまざまな香りが充満するなかで、恋人の香りだけが一直線に私の鼻腔に突き刺さってくる。同性異性含め、こんな感覚を味わったことは、後にも先にも恋人に対してだけだ。そんな特別感も相まって、恋人の香りにやられている。

 そんなことをぼんやり考えていたら、なんで私は恋人のこの2つが特に好きなのだろう、という疑問がふと湧いた。顔だってバチバチに好みだし、性格も最強だと思っている。が、いつも感じていたいと思えるほど好きなのは、体温と香りなのだ。
 この2つは直接会わないと感じられないから特に好きなのだろう、というのが結論だ。顔を見たい時はツーショットを見返せばいいし、声を聴きたかったら電話をすればいい。しかし、恋人の体温を感じたり香りを嗅いだりすることは、隣に当人がいないとできないことだ。いくら文明が発達した現代といえども、である。
 触覚と嗅覚という、人間の本質である五感にダイレクトに伝わってくるものであるだけでなく、恋人と会っている時にしか感じられない特権的なものだから、私は恋人の体温と香りが好きなのだと思う。


 最近観たCMで、写真に映った被写体の触感を味わうことのできる装置が紹介されていた。遠く離れていても大好きなペットの毛並みを感じることができる、などの良い面はあるだろうが、会っていないのに触覚で恋人を感じることができちゃうのは嫌だな、と思ってしまった。写真や電話などの文明の発達によって、視覚や聴覚を満たすのに距離の壁は無くなった。世界中どこにいても、見たいものを見たり、聞きたいものを聞いたりすることができる。距離が障壁になって視覚や聴覚を満たせない人にとって、これは驚くべき文明の進歩だ。
 しかし、DXによって触覚まで手軽に感じられるものになってしまったら、恋人の体温に対して感じている特権性がなくなってしまい、触覚の地位が下がってしまう気がした。
 DXは非常に喜ばしいことだが、技術の発達によって五感で感じられるものの特別感がなくなってしまうのはちょっと嫌だ。触覚と嗅覚の特別感は、これからもずっと味わい続けていきたい。


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 上記は、恋人と付き合って1ヶ月ほど経った時に書いた文章だ。
 恋人同士で行うひととおりのことは経験したが、まだプラトニックな香りも残っているというのが、交際1ヶ月ほどの我々だった。

 時は経ち、交際して4ヶ月が過ぎた。様々な場所へ遊びに行き、一緒に美味しいものを食べ、綺麗なものを見て、親愛と情愛を深めている。
 もちろん、「恋人同士で行うひととおりのこと」も相当経験した。その過程で気づいたことは、恋人の味も相当好きだということである。
 皮膚の味、汗の味、身体の味、体液の味など、恋人が醸し出す味は、どれも心地良い。「味」という観点で人間をジャッジしたことがないから分からないが、恋人より心地いい味のする人間はいないだろうと思う。

 五感の最後のひとつは「味覚」だが、私は味覚までひっくるめて恋人のことが好きなのだと気づき始めた。五感が心地いいから恋人のことが好きなのか、好きだから五感に心地よく沁み渡るのか、どちらが先かは分からないが、とにかく私は感覚の全てを使って恋人を好いている。こうした好きを味わえる人間は、そうそういないのではないか。

 「味覚」も、DXによって代替が効かない、特権的な感覚だ。ゆえに、私は恋人と会っている時、可能な限り彼を味わい尽くすことに努めている。物理的にたくさん「味わう」ことで、次会うまでの燃料を補給することができている。
 味覚だけでなく、触覚でも嗅覚でも、もちろん視覚でも聴覚でも、恋人といるときは5巻の全てで感じ尽くしている。感じたもの全てが私の精神的なエネルギーとなり、日々心を穏やかにさせている。

 こんな幸福をいつまで味わえるかは分からないが、味わうことを許されている限り、感覚の全てを使って恋人を受容していたい。

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