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M-1 2022 私感

 毎年M-1を追っているお笑いファンなら誰しも、予選の段階で「今年のM-1はいつもと違う」と感じていただろう。ご多分に漏れず、私もそう思っていた1人だった。ファイナリストが1回戦で落ちる、毎年決勝候補として名を上げられていたコンビが準々決勝や準決勝で落ちる、ラストイヤーのコンビも容赦なく予選落ちする、などなど。情も忖度も一切ない審査結果を見て、今年は何かが違うぞ、と思っていた。
 そんな中発表された決勝進出者は、今でも地下の劇場を根城にしている、数年前だったら準々決勝で敗退していたようなコンビばっかりだった。去年でいうオズワルド、一昨年でいう見取り図のような、優勝候補と目されているコンビもいない。誰の優勝も想像できないという、例年味わったことのないような感情を覚えた。
やはり、今年のM-1はいつもと違う。本気で何かを変えようとしている。

 話は飛ぶが、決勝進出者が発表され、世間のM-1ムードが高まった時、公式YouTubeでは「M-1のPV」が公開される。往年の名曲をBGMにして、決勝における芸人さんの持ち時間と同じ4分の尺を使い、8月から続いた予選の様子や舞台裏の芸人さんの様子を映して我々ファンの期待を煽る、いわば「運営による勝負ネタ」だ。
 そして、毎年この動画が、その年の決勝をいわば予言している。2020年のPVでは「板の上の魔物」に乗せてラストイヤー間近の芸人の苦悩やプレッシャーを描き、2021年のPVでは、「昇る太陽」に乗せて地下から這い上がる芸人を描いていた。結果、20年のM-1では当時芸歴13年目のマヂカルラブリーが優勝し、21年には地下から駆け上がった錦鯉が優勝した。
 このような相関関係を目の当たりにし、PVには「今年のM-1はこういう方針にする」という運営からのメッセージが込められているのだと感じるようになった。そんな中公開された今年のPVがこれだ。
 

 M-1という戦いを通して、芸人の人生を変えようとしている。いや、変わるのは毎年だが、今年はその度合いが違う。まだ何者でもないコンビを、一気にスターという座に押し上げようとしている。歌い出しが「神様 オレは何様ですか」から始まることでもわかるように、何様でもない、何色にも染まっていないコンビの人生を、たった一夜で変えようとしている。

 その意図をより色濃く伝えているのが、今年のM-1のポスターだ。

 まだ光の当たっていないコンビが、いつもと違う何かを見せること。歴代の王者によって脈々と受け継がれてきた「漫才」を塗り替えること。そして、一気に人生を変えること。それが、過去一熾烈な予選を勝ち上がってきたコンビに課された、決勝出場の条件だったのだろう。
 
 PVとポスターを見て、大波乱だった予選結果がすっと腑に落ちた。
 まだ何色にも染まっていないコンビであること、いわゆる「漫才」をしないコンビであること。これが予選全てを貫く審査基準だったのではなかろうか。だから、ラストイヤーのコンビ、知名度のあるコンビ、上手い漫才をするコンビがことごとく敗退した。
 そして残ったのが、先に挙げたようなコンビだった。元々の審査基準が例年と違うからこそ、例年だったら決勝に残らないようなコンビが勝ち上がってきたのだ。

 やはり、今年のM-1は何かを本気で変えようとしている。
 そう思いながら決勝当日を迎え、変な緊張感を抱きながら決勝を観始めた。

 決勝戦が始まる前に流れるVTRも、歴代王者が積み上げてきた漫才を塗り替えてほしいというメッセージが込められたものだった。この大会を通して、何がなんでも漫才に変革を起こすぞ、という運営陣の気概が伝わってきた。

 そして、優勝したのがウエストランドだった。数年前から主流になっている「人を傷つけない笑い」とは正反対の、人を傷つけまくる漫才をするコンビだ。
 彼らの優勝は、まさに時代の変化を象徴している。
 ここ数年、お笑いだけでなくテレビ全体の空気として、「人を傷つけない」だとか「痛みを伴わない演出」だとかが過剰に意識されていると感じていた。それゆえ、ドッキリは生ぬるくなり、体を張ったお笑いは敬遠されるようになり、テレビ全体がなんだかつまらなくなってきた。コンプラ遵守の圧力が高まり、ドッキリや過激な笑いに対して、腫れ物に触るような敬遠の仕方をしているというのが、ここ数年のテレビ界の趨勢だ。
 
 ウエストランドによってその空気がぶち壊されることを、運営サイドは期待しているのではないだろうか。優勝者発表後に審査員長のまっちゃんが言っていたことも、まさにそうした想いを代弁していた。曰く、「窮屈な時代だけど、キャラクターとテクニックさえあれば毒舌漫才も受け入れられるという夢を感じた」と。
 つまり、ウエストランドの持つ毒によって、昨今の世間の圧力や息苦しさをはねのけてほしい、というのが、8月からM-1を作ってきた運営陣や、決勝で審査をしていた審査員たちの願望なのであろう。そしてそれは、最近のテレビに物足りなさを感じていた、我々視聴者の願望でもある。
 「コンプラ重視」という至上命題をひっくり返す。この優勝にはそれだけの力がある。実際、マヂカルラブリーが優勝してから関東の地下芸人に光が当たるようになったし、錦鯉が優勝してからおじさん芸人の苦悩がクローズアップされるようになった。このように、あるコンビがM-1に優勝するだけで、時代の空気は変わるのだ。よって、来年のテレビ界も何かが変わるだろう。

 決勝戦は、出順から採点から優勝者まで、全てに嘘がない。ガチの勝負と審査が行われる場である。もしウエストランドがトップバッターだったら、最終3組で一番始めにネタをやっていたのが違うコンビだったら、優勝するコンビは間違いなく変わっていただろう。
 しかし、それにもかかわらず、運営側が想定していた「今年のM-1」を象徴するコンビが優勝してしまうところに、因縁のような、業のような何かを感じた。改めて決勝に進出したコンビを考えてみると、ウエストランドが一番、「漫才を塗り替える」というテーマを体現していたような気がしてならない。いや、漫才だけでなく、時代をも塗り替えてしまう可能性を秘めている。
 
 やはり今年のM-1は、何かを変えてきた。しかも、漫才という1つのジャンルに留まらず、テレビ全体に対して変革を突きつけてきた。
 
 世の中にはウエストランドの優勝に対して納得感を抱いていない人もいるようだが、M-1を予選から注目し、今年を変革の年にしようとしてきた運営サイドの心意気を知る私としては、文句なしの大優勝だったと思う。
 ウエストランド、おめでとう!
 

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