大木 亜希子
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花を買った。精神衛生が良くなり、ドヤ顔をしたくなった。一輪の花には、それだけの力がある。
得たいものを得るために欲望を律し、物事の優先順位を守り、意地でも物書きの矜持を守る今の自分が結構好き。そりゃ、24時間ずっと完璧ではないし、自堕落さとは友達。でも、最後には自分を信じている。
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誰かが貴方に、「こうしたほうがいい。それが貴方のためになる」と言ってきたとしても、ピンとくるまで、その言葉は寝かせてていいよ。
誰かの言葉に影響を受けても、最終的には何を選んでも自分の本質に戻ってくるから、だから貴方は掻き乱されず、焦らず、自分のままでそこにいてよ。頼みましたよ。
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人と出会うことで、否応なく自分と向き合う
この六月は、狂ったように遊び倒した。
私は心のどこかで、いつも「遊んでいる暇があったら、仕事、もしくは仕事に準ずることをするべき」という強迫観念があった。
そんな感情を抱くに至ったのには明確なきっかけがあり、それは、10代の頃に出会ったモラハラ系
父の命日と、三人の運命の男たち
近頃も、締め切りと格闘している。ほとんど誰とも会っていない。
だからと言って、完全に自宅に籠っているかいえば、そうでもない。
近所のお散歩をしたり、ご近所さんと(道すがらに)世間話をしたりはしている。
このマガジンにも書いている通り、年明けから精神的にやられてしまう事案が続き、本当に大変だったので、「何事もない、穏やかで安らかな状況」が死ぬほありがたい。
好きだった人のことを全然好きじゃなくなってた。
先日、昔好きだった人と遭遇する機会があった。
顔を見た瞬間はさすがに心肺停止し、呂律が回らなくなり、盛大にテンパってしまった。
どれだけ大人の対応をしようと思っても、全然、無理だった。
しかし、まあ全て終わったことだし、それは流石に理解しているので、湿り気を帯びた空気感を出すこともなく、一見すると全然普通に大人同士として無難に会話をした。
なんなら、私は彼の前でサバサバとした性格すら演じて
多分、私、疲れてた。
近頃、思うことがある。
それは、いささか自分が職業や肩書きに囚われすぎていた、ということだ。
例えば最近、初めて会う人に自己紹介する際、必ず
「作家の大木亜希子です」
と、挨拶をしていた。
そこには相手との会話が以降、広がりやすいようにという、自分なりの配慮もあったと思う。
私自身も、相手がどんなことをしているのか知りたいし、職業や肩書きを名乗るのことは、社会で生きる上で当たり前と言え
もし、とても辛いことがあったとして、その辛いことを他の人ならば乗り越えられそうなのに、自分が乗り越えられそうにない時、「他の人は我慢できるのに、自分は我慢できないなんて」と思わないでいいと思うんだよ。
他の人が耐えられることを、貴方が耐えられないことは、貴方の責任ではありません。
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こんな日が来るなんてね。
自分という人間は、あまり他人の幸せを喜べないタイプなのだと思い込んでいた。
しかし、近頃そうでもない。
きちんと他人の幸せを喜べる。
なぜそう思ったのかというと、とても奇妙な話だが、先日の朝歩いていて、とても気持ちのいい風が吹いてきたからである。
その風が、 とにかく気持ち良かった。
ただ、それだけのことで、そう思った。
その瞬間、アレ?本当は私、随分前から人の幸せを喜べていたかもと、
過去の自分に救われてる。
昨日、自宅に小包が届いた。
差出人は、しばらく会っていない友人だった。
小包の中にはレモネードの瓶が2本入っており、付属の便箋には、こう書かれていた。
「会っていない間に仕事が変わり、このたび遠方に引っ越すことにしました。
これからは、今までのように頻繁には会えなくなります。
お別れの代わりに、このレモネード受け取ってください。
私が無自覚にメンタルをやられていた時、亜希子が助けてくれ
人に気を遣う癖が抜けない。
とにかく昔から、人に気を遣う。
気を遣うだけではなく、気を遣わせてしまう。
先日も楽しい仕事関係の会食があり嬉しかったのに、気遣いが限界まで達し、早々と撤退した。
そういう時、私は、考えてることが2つある。
ひとつは、大人になると「人見知りです」という印籠をかざしても、どうにかしてその場をやり過ごさなければならない瞬間がありすぎるということ。
もうひとつは、たしかに人見知りだが、一方では
大人になっても人見知りは完治しなかった。でも
以前から顔見知りだけれど、サシでお食事をするのは初めての方と、たまたま縁あってお酒を飲みながら色々と語ることになった。
私は絶望的に人見知りで、尚且つ、それがバレないよう普段からゴテゴテに笑顔でコーティングするので、相手からは社交的に思わることが多い。
その地獄のようなパラドックスは自分で蒔いた種なので、甘んじて引き受けるけれど、でも本当はいつも誰かと仲良くしたい時、そのことが足枷になっていた