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多分、私、疲れてた。

近頃、思うことがある。

それは、いささか自分が職業や肩書きに囚われすぎていた、ということだ。

例えば最近、初めて会う人に自己紹介する際、必ず

「作家の大木亜希子です」

と、挨拶をしていた。

そこには相手との会話が以降、広がりやすいようにという、自分なりの配慮もあったと思う。

私自身も、相手がどんなことをしているのか知りたいし、職業や肩書きを名乗るのことは、社会で生きる上で当たり前と言えば当たり前のことなのだろう。

しかし、そうしたエクスキューズを差し置いて、よくよく自分の気持ちの深淵に降りてみると、

「私は東京で一人、作家という大変難しい職業で生計を立てており、舐められたくないので、先に言っておきますけど、小説家です」

「こう見えて、小説とか書いちゃってます()」

「肩書を先に伝えることでインパクトを残したいので言いますけど、小説家です」

というような感じで、総じて「先手打ってジャブ入れときますけど、小説家です」というプライドが、心の内側にチラついていた気がする。

あぁ、なんて自分は小さい人間なんだろう。

自己紹介をさせてもらった相手は全然悪くない。

ただ、私自身が、自分の肩書きに囚われすぎていた。

近頃、日に日に、このことについて違和感が溜まっていた。

さらに相手から求められて、全然仕事モードの時ではない、プライベートな時も、「文章を書いている」ということをオープンに伝えなければならない時があり、それがさらにしんどかった。

たしかに自分で文章を書き生計を立て、メディアに出させてもらい、横繋がりで色々な素晴らしい人と出会える現在は素晴らしい。

それは、私自身が勝ち取ってきたことであるように思う。

相当ハードな道のりであったし、これからも相当ハードなことはあるだろうけれど、傷つきながらも積み上げてきた。

でも、なんか、そういうこと全部どうでもいい。

何かに対して息苦しさを感じていた。

仮に、もし私が文章を書かなくなったとしたら、自分に価値が感じられない気がした。

でも、その考えは危うい気がした。

なぜなら、私が大好きな親友や家族は、私のこと

「アンタはいるだけで面白いんだがら、何事にも囚われるな」

「何をやっているかということに、重きを置きすぎるな」

と、よく言ってくれるからだ。

多分、そちらのほうが、真実なのだと思う。

彼らの言葉を借りるのであれば、私は自分の野心に囚われすぎていた。

もちろん今後も沢山の文章を書き、それで多くの方に手に取っていただき、作風を広げて、職業人としての夢を広げていきたい。

その野心に、偽りの気持ちはひとつもない。

純度100%で自分の夢を実現していきたい。

そのためだったら、なんでもする。

しかし、なぜか、その文脈とは別のベクトルで、小さな違和感を覚え、それは自分自身の捉え方に問題がある気がした。

おそらくそれは、10年以上前SDN48というアイドルグループで活動後、一般企業に入社した際、求められるままに「元アイドルです〜」と言っていた、あの時と似ている。

私はあの頃も、そのことに対して、勝手に違和感を覚えていた。

本当の自分はどこにいるのだろうか。

そう思い、常に悩んだ。

誰も求めていないのに、自らフリとオチを探求し、日々を道化師に徹した。

ただ、これは今回の「小説家」に関する違和感と違い、あの頃の私は、今よりももっと自分に自信がなかった。

だから、初めての人間関係において「出オチ」になっても良いから先にキャッチーな情報を伝えることで、取引先の方からお仕事をもらえるように必死になっていたような気もする。

そう考えると10年前の自分の悩みと、今の自分の悩みは、似て非なるものである気もする。

おそらく、近頃の私が自分の肩書きに苦しさを感じている理由は、

「今後どんな将来が待っているかわからないけれど、社会的自我を発信していく為、まずは凄い人だと思われなくては」

という怖れからくるものである。

しかし、おそらくそれでは永続的幸福感を感じることができない。

だって、それって仕事の成果で自分を判断しちゃってるんだから。

そういうことだと思う。多分。

多分、本当は、もっと私は自由でいい。

誰と付き合っても、誰と結婚しても、一人を選択しようと、どんな仕事をしても、プライベートでどんなことがあっても、普通に存在しているだけで良い。

仮に今後、文章を書かなくなったとしても、書き続けてより多くの人に自分のことを知って頂けるようになったとしても、自分の仕事に矜持を持っても、持てなくなったとしても、最終的には「何者でもない自分」を愛したい、受け入れたい。

アンタは、そのままでいいと、何者でもない自分を自分で引き受けたい。

そして「何者でもない自分」をいいね、と言ってくれる人たちと一緒にいたい。

もちろん霞を食って暮らしてはいけないので、何かしら働きはすると思うし、できればその選択は「文章を書くこと」であり続けたい。

そのためには、なんだって努力をする。

でも、その思いと同じくらい何事にも囚われない、美しい自分でいたい。

そうなるために、どうしていこうかな、と今考えている。

どこまでも見栄っ張りな自分を、ここいらで降りたい。

この社会において「自分が何をしているか」ということからは、完全には逃れられない気がする。

自分自身が、囚われているからだ。

しかし、究極のところ「何をしていても自分は尊い」という根源的自尊心を持たなければ、いつかきっと潰れてしまう。

だから私は何者でもない、ぐーたらで、クソで、ダメダメで、ただの34歳の自分を受け入れたい。

これからも便宜上、

「文章を書いて、それで暮らしていま〜す」

と、他者に説明することはあるだろうが、せめて心の中だけでは、


「でも、それとこれとは一切関係なく、私という人間は普通に素晴らしいです」

と言える自分でありたい。

何をやっているかと言う修飾語を、こっそり捨て去れる自分でいたい。

それがたとえ自己満足と言われようとも。

まっさらな自分のことを愛せますように。

記録。さよなら〜

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