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本当の感情に辿りつくまで、いつも時差がある
昨日、仕事の打ち合わせをしていた時、話の流れから編集者さんに「今の大木さんが素敵ですから、今を生きて下さい。今の佇まいのままでお願いします」と言って頂く機会があった。
その時、あぁ、どうにかこれまで粘って頑張って生きてきて良かったなと思った。
それだけ、その言葉が刺さった。
嬉しかった。嬉しくて、寂しくなった。
同時に、「今の大木さん」という言葉から派生して、こんなことを思った。
備忘録
好きだった人のことを全然好きじゃなくなってた。
先日、昔好きだった人と遭遇する機会があった。
顔を見た瞬間はさすがに心肺停止し、呂律が回らなくなり、盛大にテンパってしまった。
どれだけ大人の対応をしようと思っても、全然、無理だった。
しかし、まあ全て終わったことだし、それは流石に理解しているので、湿り気を帯びた空気感を出すこともなく、一見すると全然普通に大人同士として無難に会話をした。
なんなら、私は彼の前でサバサバとした性格すら演じて
多分、私、疲れてた。
近頃、思うことがある。
それは、いささか自分が職業や肩書きに囚われすぎていた、ということだ。
例えば最近、初めて会う人に自己紹介する際、必ず
「作家の大木亜希子です」
と、挨拶をしていた。
そこには相手との会話が以降、広がりやすいようにという、自分なりの配慮もあったと思う。
私自身も、相手がどんなことをしているのか知りたいし、職業や肩書きを名乗るのことは、社会で生きる上で当たり前と言え
こんな日が来るなんてね。
自分という人間は、あまり他人の幸せを喜べないタイプなのだと思い込んでいた。
しかし、近頃そうでもない。
きちんと他人の幸せを喜べる。
なぜそう思ったのかというと、とても奇妙な話だが、先日の朝歩いていて、とても気持ちのいい風が吹いてきたからである。
その風が、 とにかく気持ち良かった。
ただ、それだけのことで、そう思った。
その瞬間、アレ?本当は私、随分前から人の幸せを喜べていたかもと、
過去の自分に救われてる。
昨日、自宅に小包が届いた。
差出人は、しばらく会っていない友人だった。
小包の中にはレモネードの瓶が2本入っており、付属の便箋には、こう書かれていた。
「会っていない間に仕事が変わり、このたび遠方に引っ越すことにしました。
これからは、今までのように頻繁には会えなくなります。
お別れの代わりに、このレモネード受け取ってください。
私が無自覚にメンタルをやられていた時、亜希子が助けてくれ
人に気を遣う癖が抜けない。
とにかく昔から、人に気を遣う。
気を遣うだけではなく、気を遣わせてしまう。
先日も楽しい仕事関係の会食があり嬉しかったのに、気遣いが限界まで達し、早々と撤退した。
そういう時、私は、考えてることが2つある。
ひとつは、大人になると「人見知りです」という印籠をかざしても、どうにかしてその場をやり過ごさなければならない瞬間がありすぎるということ。
もうひとつは、たしかに人見知りだが、一方では
大人になっても人見知りは完治しなかった。でも
以前から顔見知りだけれど、サシでお食事をするのは初めての方と、たまたま縁あってお酒を飲みながら色々と語ることになった。
私は絶望的に人見知りで、尚且つ、それがバレないよう普段からゴテゴテに笑顔でコーティングするので、相手からは社交的に思わることが多い。
その地獄のようなパラドックスは自分で蒔いた種なので、甘んじて引き受けるけれど、でも本当はいつも誰かと仲良くしたい時、そのことが足枷になっていた
こないだ見た夢のこと。
先日、昔好きだった人が夢に出てきた。
夢の中で私は、彼の手に触れた。
柔らかい手のひらの感触があり、困り果てた。
彼の周りを取り巻く寂しそうな空気感、空っぽな瞳、時々クシャッと笑うところまで再現度が高く、私は夢の中なのに、
「ゲッ。これ以上、絶対にこの人に触れてはいけない」
と、警戒モードMAXだった。
一方、とても冷静な自分もいた。
久しぶりに君臨する目の前の男に、どうやらもう熱烈
今の、自分の実力を認める
今、近所の公園でこれを書いている。
多分、大して有益な情報は書けない。
改めて読み直した時、「無意味〜。無意味なnoteを書いちまった〜」と思ったら消す。
しかし、なぜ、書いているかと言うと、書きたいから書いているのである。
◆
近頃、苦しい時期を通っていた。
誰しも、あると思う。辛い時期が。
それで、一生この辛い時期が続くのかと思った。
冷静に考えれば、そんなこと、あるわけがない
人は、誰しも、誰かの人生の脇役である。
昔から、「自分の人生は自分が主役」という言葉が少々苦手だった。
いい言葉だと思う。
「他人本位に生きるな」という警鐘として、抜群に効果を発揮する言葉だとも思う。
しかし、その上で思うのは、「たしかに自分の人生は自分が主役だが、ミクロの視点で見れば意図的に脇役になるのも悪くない」ということだ。
というのも私たち人間は日々、他者と関わり合って生きている。
(稀に誰とも関わらず、自分ひとりで生
そういうことも、あるね。
かつて、恋に落ちた相手の人生にとって自分が必要ではない判断し、本格的な恋愛関係に発展する前に、可及的速やかに撤退したことがあった。
周りの人には「お前はバカか?好きならば、ガンガンいくべし」と言われた。
その言葉はありがたかったが、総合的・俯瞰的に見て彼にとって明らかに私は不要で、不要である上に、むしろ私がいないほうが彼の今後の人生が美しい気すらした。
それはもう神様が与えたチョイスであり、