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A_011 手段系を尽くすより、自分の思いを尽す

流行と自分のスタンスがぴったりなんてことない。でも、流行っているし、同じスタイルに憧れる。確かにそうだけど、それは本質なのか?

営業の世界でも量産型と試作機みたいな、養殖と天然と言った方がいいかもですけど、そんなことを感じることがよくあります。天性のコミュニケーション力とクロージング力なんて言うと聞こえはいいですが、転賦の才を持った人はある意味人誑しです。

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さて、本質とは、それは自分がどう思い、どう感じ、どう表現しているか。
認めて欲しかったり、数を稼ごうと思えば、流行の波に合わせることが最短距離かもしれませんが、自分が表現したい世界に対しては非常に遠回り。量産型のエースパイロット搭乗機みたいな感じでしょうか。多分、よっぽどのことがない限り、スペシャルな機体に乗ることはないと思います(ガンダム的に)。
認知され、数がついてきて、結果が望む望まないにせよついてきた頃には、「自分は本当はこれがしたかったんです。」そんなこと言うと、「それは君じゃない」と否定されてしまう。そんなことなら、物事の初めから自分の表現したいものを決めてそこを突き詰めればいい。量産技術は取り入れるけど、生き方は自分で決める的な感じです。

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フルタイムワークで仕事をしながら写真を撮っている人は沢山いるし、作品も技術的にも、機材の保有数もすごい人は沢山いる。同じ土俵に上がれば、おそらく横綱相撲で負けてしまう。だから、僕は、同じ土俵には登らないと決めています。
フィルムが特化に対してその土俵では戦えないし、ストロボ特化の人には、寄れても勝てない。デジタルでアナログ表現を得意としている人に対しても同じこと。そして、誰もが同じように手段系としての表現手法を取り入れていくし、最近の流行はソフトフィルターだったりする。自己表現に対してマッチしているものを取り入れるのはすごくいいことだと個人的にも思うし、良いことだと思います。
そこで、一つ考えて欲しいことがあって、それは「自分の思いを尽くしてる」のか。
写真は、高尚な趣味の一つだろうし、ちょっとした贅沢だと思うんです。デジタルの機材ではイニシャルコストが高いし、フィルムにしてもランニングコストが大きい。いいものを使えば、記録として素敵なものは沢山残るけど、そこに思いはどれだけ詰め込まれているかなんて見えないですよね。思いが見えるものって、どんな機材を使っていたって、どんな手段だって関係なくとても素敵に見えるんです、きっと。だから、残したい瞬間があるなら、思いを尽くすこと。そこをもうちょっとこだわってみたら、みんなに見てもらう写真がもっと素敵になると思います。

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僕自身、フィルムカメラは使うつもりなかったけど、引っ張り出して使い始めたら、自分の表現したい世界に近いことがわかって、これならいいよねと思えました。手段系と思いのマッチングは重要だけど、やっぱり積み重ねた経験や思いが強ければ強いほど、アウトプットに感情が乗っているんだと改めて思いました。

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1年前、人物を被写体にしたいと思い始めたポートレート。初めは試行錯誤というより、人を撮る楽しさが先行していたけど、撮りたいものがはっきりしてからは、まだまだブレることはあるけど、確実に撮りたい形になっている。
きっとそれは、他とは違う土俵で勝負できているから、なのかもしれません。
思いを尽くして、僕は、僕だけの世界観を表現していきたい。なんて思っています。

※今回は、デジタル(使用機材はsonyとfuji)・フィルム(トイカメラ)それぞれの写真を掲載しています。

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