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ゆっくりとした時間の大切さ

今日の朝、いつものようにコーヒーを淹れた。
淹れるというよりも、豆を挽き、時間をかけて丁寧にドリップするその過程が好きだ。

手順を追うごとに、生活のリズムが整っていくような気がする。
けれども、今日のコーヒーはいつもと違った。

なぜか、苦すぎる。
もちろん、いつもと同じ豆を使って、同じ湯温で淹れたはずだ。

だけど、少し違うのだ。
生活の一部として慣れ親しんでいるものでも、時々予測不可能な変化が起こる。そういうものかもしれない。

朝食を食べ終え、いつものようにパソコンを立ち上げる。
最近、ネットのスピードが異様に速い。普通の人なら歓迎するのかもしれないが、私は少し困っている。

何に困るかって、速すぎるからだ。
メールを確認して、ニュースをチェックして、いくつかのサイトを巡っても、10分も経たないうちに全て終わってしまう。

効率が良すぎる。
情報が一気に流れ込んでくる感じが、少し重たい。

インターネットは便利だ。それは認める。
検索窓に質問を打ち込めば、あらゆる答えが瞬時に出てくる。

友達とのメッセージもリアルタイムでやり取りできるし、買い物だってワンクリックで完了する。

でも、その反面、少し疲れている自分がいることに気がついた。
すべてが速く、簡単に手に入るということは、余白がなくなるということだ。

ぼんやりと何かを待つ時間とか、考え事をする余地が奪われていく感じがしている。

たとえば、昔は手紙を書いていた。
返信が来るのに数日かかることもあったが、その待っている時間が良かったのだ。

手紙の内容を反芻したり、次の返信をどう書くか考えたりして、時間をかけて関係を築いていく感じがあった。

今は、LINEやメールで簡単にやり取りできるから、考える時間も省略されてしまう。

結果として、物事の深みが失われるような気がする。
もしかしたら、スピードがあればあるほど、私たちは何か大切なものを置き去りにしているのかもしれない。

だから、私は時々、意図的にネットから離れる時間を作ることにしている。今日はその一環として、図書館に行くことにした。

図書館は、ネットの喧騒から離れて本と向き合える、私にとってのオアシスだ。

本の匂い、ページをめくる音、静かな空間。すべてが心地よい。
インターネットとは違い、ここには速さがない。

知りたい情報を探すのに時間がかかるし、何かを調べようと思っても、すぐに答えが出てくるわけじゃない。それが、逆にいいのだ。

今日は特に目的もなく、適当に棚を眺めていた。
気になるタイトルの背表紙が目に入るたびに手に取ってはパラパラとめくり、また戻す。そんなことをしながら1時間も過ごした。

最終的には、昔から読みたかった小説を借りた。
その本を借りる決断に至るまでのプロセスが、実に贅沢だったと思う。
選択に迷う時間、何を読むべきか自問する時間、それが私には心地よい。

図書館から帰宅して、またコーヒーを淹れた。
朝の失敗を挽回するために、少し豆を多めに使ってみた。

今度はうまくいった。
ゆっくりとした時間の中で、コーヒーを楽しみながら、先ほど借りた本のページをめくる。

こうして過ごす時間は、ネットのスピードとは対照的だ。
ゆっくりと、けれども確実に何かを得ている感じがする。
まるで、砂時計の砂が一粒一粒落ちていくような感覚だ。

インターネットの速さに慣れてしまった現代の私たちは、時折こうした「ゆっくりとした時間」を忘れてしまうことがある。

でも、その余白こそが、私たちにとって本当に必要なものかもしれない。
そう思うと、ネットが速すぎるというのも、一概に良いことではないのかもしれない。

インターネットが便利なツールであることに異論はないが、そのスピードに飲み込まれないよう、たまには自分自身の速度で生活を送りたいと、改めて思う。

今日の私は、図書館で手に取った本と、丁寧に淹れたコーヒーのおかげで、少しだけ心が軽くなった気がする。

やっぱり、速さは良し悪しだ。
何でもすぐに手に入る時代だからこそ、少し立ち止まって「待つ」という行為が、より価値を持つように感じる。

明日はまた違った速さの一日が始まるのだろうけれど、今日だけは自分のペースで歩こうと思う。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。 これからも、日常に寄り添う記事を書いていきますので、またふらりと立ち寄っていただけると嬉しいです。