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砂鉄と磁石

意識が遠のく瞬間を覚えていたいだなんて。
杏子は薄い布団の中に足を突っ込みながら、これはまたやっかいなことになりそうだ、と苦笑いをした。

さあ寝るぞというタイミングで、たまに杏子は絶対に答えなど出ないようなことを考えてしまうのだ。

冷房からポコポコと一定のリズムを刻む木魚のような音が聞こえる。機密性が高い部屋で冷房をつけるといつもこうだ。窓を開けると鳴らなくなるのだが、さすがに窓の開けっぱなしは防犯上よくないから、そのまま大人しく音を聞くしかない。

ガバッと布団の中に頭を潜り込ませる。好奇心という煩悩にまみれた杏子に、早く眠れと冷房が駆り立てる。だが、杏子の体が深い海の底に落ちようとするたびに、頭の中で自分の意識がどこに行こうとしてるのか手繰ろうとしてしまう。

ああ、今日は眠れない日だ。
杏子は何度目かの寝返りを打った。暗闇に頭を投げ出し、はっきりと目を開ける。

こんな日が昔から何度かあった。小さい頃から、なかなか寝付けなくて泣き喚く私に、母はいつもこう言いきかせてくれていた。

「頭を空っぽにするの。なぁんにも考えないでいるの。」

幼い私の背中に回している母の手が、ゆるりと動く。
ぽん。ぽん。ぽん。
眠る前の少し温かい母の手は、私を安心させるのに充分すぎるほどに優しかった。

何も考えないでいる、か。
杏子はゆっくりと瞼を閉じる。
イメージは真っ白な世界。
真っ白で、何も、ない世界。

舌が上顎を押さえる感覚が強くなる。
そこを起点に、砂のようにさらさらと体の先に意識が散っていく。耳、肩、手先。お腹、太もも、足先。
少しずつ、少しずつ。



次に目を開けたときには、冷房から音はしなくなっていた。

決定的な瞬間は覚えていない。
けれど、意識は決してどこかへ消えてしまうのではないんだな、と杏子は朧げな記憶を手繰る。
なんというか、砂鉄みたい。
頭という磁石が働いている時は頭に集まって自由自在に形をなしているけれど、磁石が働かないときは小さな粒々で何の形もなさない。

粒達が集まり出した頭は妙にすっきりしていた。磁石の調子が今日はいいらしい。

眠れない日もたまには悪くない。
とまた、後悔しそうなことを思った。

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