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森とクジラ (14)

 最後に身近な人が亡くなったのはいつだったろうと振り返ってみたが、うまく思い出せなかった。しばらく考えてから、大学四年生の時に、高校時代の担任の先生が亡くなってお通夜に出たことを思い出したが、そのことが誰かの亡くなった記憶とうまく結びつかなかったのは、葬儀会館でのお通夜がまるで立派な式典のようで、亡くなった先生がこの世に存在していたことの何もかもがきれいに隠されたまま、ただ棺の前で焼香し、親から借りた数珠を絡めて手を合わせただけだったからだ。

 あの日、「私が死んだら、この森を継いでもらえないかしら」と言われた言葉の真意を確かめることなく、二人で森を出てきてしまった。ごめんなさい、突然にこんなこと言って、でも、考えておいてほしいの。キタムラさんにそう言われ、でも私が死んだら、という言葉も、この森を継いでもらえないかしら、という言葉も、あの時のミトの容量を遥かに超えていて、溢れた思いは言葉にならないまま小道の陰に消えてしまった。

 どうしたらいいのだろう。苛烈な光が庭を焼く午後、ミトは居間の畳の上に寝転んで天井を見上げたが、枝の節が波紋のように広がる木板をいくら見つめても、答えは出なかった。もし、もし何かがあって、この森をキタムラさんから受け継いだとして、再開発には反対だとオオノたちを突っぱねればいいのだろうか。それとも、全員が妥協点に着地できるよう、彼らと協議を重ねればいいのか。そもそも、キタムラさんの申し出をわたしは受けてもよいのだろうか。彼女の申し出を受ける資格が、自分にはあるのだろうか。

 耳鳴りのようにこだまする蝉時雨を聞きながら、だが考えはまとまらなかった。目を閉じて午睡に身を任せたら楽になるかもしれない、そうは思っても、外から熱風が吹き込んでくるたびにミトの意識は畳の上に繋ぎ止められ、何の解も見いだせないまま、こうして今日が過ぎていくのだった。


 ユミから連絡があったのは、いつまでたっても夜にならない夏の日の夕方だった。

「元気にしてる?」
「まあね」
「何日か、そっちに遊びに行ってもいい?」
「いいよ。森と海の他には、何もないけど。あ、ベッドは一つしかないよ」
「大丈夫、寝袋とテントマットを持ってくから」

 まるで男の子みたいだ。そう思いながらミトは電話を切った。それから、ユミのくりくりした目や、少し癖っ毛のあるショートカットを思い出しながら、明るい庭を眺めた。

 翌日やってきたユミは、アースカラーのチューリップハットをかぶり、重ね着したキャミソールに色の落ちたジーンズ姿で玄関前に立っていた。扉を開けたミトが声をかける間もなく、小さなデジカメのシャッターを切ると、いい顔してるじゃん、とユミは言った。

「そうかね?」
「そうとも」

 お邪魔しまーすと言いながら、黒のサンダルを脱いで玄関に上がると、ユミは背負っていたバックパックを置いた。

「ずいぶん大きいね」
「いろいろ入ってるからね。お土産も持ってきたよ」

 ユミは引きずるようにバックパックを持ってキッチンへ行くと、ゴーヤととうもろこしを二本ずつ、小さな黒糖のかけらがいっぱい入ったビニールパック、それから泡盛の小瓶を取り出してダイニングテーブルに並べた。

「沖縄に行ってたんだ」
「とうもろこしも?」
「いや、これはうちの実家から送ってきたやつ」

 その日は早めに仕事を切り上げ、まだ明るいうちから二人で飲むことにした。ミトがとうもろこしと枝豆を茹で、冷奴とゴーヤチャンプルーを作っている間、ユミは居間で寝転んで写真を撮ったり、縁側に腰掛けて庭を眺めたりしていた。

「いい家じゃん」

 料理ができてダイニングテーブルを囲み、缶ビールをグラスに注いで乾杯するとユミが言った。

「でしょ。わたしもすごく気に入ってるんだ」
「もうずっとここに住んじゃえば」
「そうしたいんだけどさ」

 ゴーヤチャンプルーをつまみながら、ミトはぽつぽつとこれまでのことを話し始めた。ビールの缶はすぐに空になり、そのたびにミトは冷蔵庫から新しい缶を取り出して、続きを話した。

「そうだねえ」

 四等分したとうもろこしの一片を両手で掴み、もりもりとかじった後ユミが言った。

「よくわかんないね」
「よくわかんないか」
「贈与税っていうの? 相続税? よくわかんないけど、払わないといけないんじゃない」
「やっぱり、そうだよねえ」

 そうは答えたものの、お金のことについてはすっぱりと頭から抜け落ちていたので、ミトは変に感心しながら枝豆を食べた。

「そもそもよくわかんないのはさ、森って売り買いされるものなんだっけ、っていうこと」
「え、どうして?」
「誰かの森、なんてものがあるのかな」
「まあ、個人の土地だからね」
「そこなんだよ。例えば、ネイティブアメリカンは土地を神様からの贈り物だと思ってた。動物や植物や、人間が生きていくために必要だから、土地は与えられたんだ。だから、所有とか売買とかの対象じゃないの。私にはその考え、しっくりくるのよね」
「うん」
「自然や大地に値段がついて、人間が自然をコントロールするんだっていう考え方で数百年経って、今この状態になってるわけじゃない?」

 ユミはテーブルの上の缶を指先でコンコン、とつついた。

「自分たちだけじゃなく、将来世代も含めたあらゆる生命が生きていくために与えられた、と考えれば、自然を売り買いするっていう発想自体がおかしいかもしれないよね」
「そういう風に考えたことなかったな」

 ミトは枝豆のさやを皿に入れて、もう一つ枝豆をつまんだ。鮮やかな緑色をしたさやの表面に、うっすらと産毛のような毛が生えていて、さわりと指先に触れた。

「でもさ、自然が誰のものでもないとしても、人が世話をすることは必要でしょ」
「そうだね。日本の里山は、まさにそうやって自然との境界線で暮らしてきたわけだしね。山は誰かのものじゃなくて、村全員で管理してた」
「村全員、かあ」

 自然は誰のものでもない、それはその土地に住む全員に関わりがあるものだ。だとしたら、全員で管理する、というのは理にかなっている。

「でも、この町の全員で、あの森を管理することなんてできるのかな」
「まあ、最初は有志でやっていくしかないだろうね。それから徐々に関わる人を増やしていく」
「町に任せたらどうかな。公共財ってことにしてさ」
「自治体が管理する山や自然林もあるよね。でも、今回の開発には町も一枚噛んでるんでしょ。新しくできる第三セクターに払い下げられちゃったら、どうしようもないよね」
「そんな、勝手にはできないでしょ」
「そりゃあ行政だから、勝手にはできないよ。でもパブコメを集めて、住民のヒアリングをして、町民の総意ですって形に持ち込まれたら、そこからひっくり返すのは大変だろうね」

 ユミは皿に箸を伸ばすと、ゴーヤチャンプルーを一掴みして口の中に入れた。


 食事が終わって、順番にシャワーを浴びた後も、外はまだうっすらと明るかった。二人ともTシャツと短パン姿になると、泡盛と氷をグラスに入れて、ミトとユミは居間に寝そべった。

「やっぱり畳はいいなあ」

 大の字になってユミが言った。ミトが畳に顔を近づけると、い草の香りがほんのりと漂った。ユミは近くに置いてあったデジカメを取り上げて、天井を撮り、庭を撮り、それからカメラをミトに向けた。風呂上がりのすっぴん姿を撮られるのは抵抗があったが、酔いのせいか、ユミだったらまあいいか、という気もした。

 ミトは上体を起こしてお盆の上に置いてあるグラスを取り、泡盛に口をつけた。一瞬カッと熱いものが喉を通り過ぎると、まだ蒸し暑い宵の空気が涼しく感じられた。目の前の庭は暑かった一日をようやくくぐり抜け、ほっと一息をつくようにしんなりしていた。毎日のように手入れをしていても、庭のあちこちに新しい草や蔦が湧き出していた。

「たったこれだけの庭でも、維持するのが大変なんだよ。すぐに草が生えてきてね」
「そうだろうね。植物の生命力はすごいから」
「庭の周囲にレンガづくりの溝が掘ってあって、最初水はけのためだと思ったのね。でも、ちがった。あれは森から植物の根が侵入してこないように遮断するためのものなんだって、夏になって気づいたよ」
「除草剤は使わないんだ」
「使わない。でも、ずっとここに住むとしたら、歳を取って体力がなくなってきたら、使うかもしれない。それくらいすごいんだもん、植物の勢いって」

 ミトはグラスの泡盛をちびちび舐めながら庭を見た。除草剤を使えば、どれだけ楽だろう。小さな庭でさえ、こうなのだ。米や野菜を作っている農家の苦労を思うと、想像もできない。ここに住むまでは、農薬についてネガティブなイメージがあったし、それは今でも変わらない。でも現実の一端を知ると、簡単なことは言えないと思うようになった。

「住むって、根を下ろすことなんだなって、ここに住んで思ったよ。土地や、周りの人や、自然に対して責任を持つことなんだなって」
「私はそういう生き方はしてないけど、わかるよ」
「いい悪いじゃなくってね、違うんだなあって。都会に住んでた時は、自分の場所だって思えなかった。何かあれば引っ越しすればいいって思ってたし、そうやって実際ここに来たわけだしね」
「あの時のミトは、元気なかったよ」
「そう?」
「うん。なんだかね、見えない枠の中に頑張って自分を押し込めようとしているように見えたよ」

 ああ、とミトはうなずいた。枠の中に自分を押し込めようとする、という言葉には、身に覚えがあった。

「どうするか、だなあ」
「キタムラさんのこと?」
「それだけじゃなくて、わたし自身のこと。ここに根を張るかどうか、ってこと」
「そうね、決めつけなくてもいいけどね」
「うん、どんな可能性も閉ざすつもりはないんだけど、覚悟を決めるっていうか、どこでどう生きるか、そういうことに向き合わなきゃいけないタイミングなんだろうなあって」

 ただリモートワークのためにこの家に来たのに、自分の意思とは関係のない流れに引き寄せられている気がする。不快な感じはしない。決定権は自分にある。だが自分の人生の方向性を、自分の意思でもってはっきり定め、動かすということを、ミトはこれまで経験したことがなかった。

「これって、自分の人生に触れようとしてるってことなんだろうなあ」

 ぽつりとそうつぶやくと、ミトはグラスをお盆の上に置いた。

「流れに乗った船の船長みたい?」
「そうね。流れがどこへ向かっているのかわからないけどね」
「大きな海に出るといいね」
「そうだね」

 ピピッとデジカメのシャッターが切られる音がして、だがあたりは暗くなり始め、何もかもが輪郭をゆっくりと溶かして宵闇に混じり合っていくのを、ミトはぼんやりと眺めた。南の空にいくつか星が輝いている。明日も暑くなるだろう。

(つづく)

 

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