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14年

 大江健三郎の著作に、『新しい文学のために』という新書がある。1988年に刊行された本で、カバーの袖にはこのように書かれている。

新しい文学のために
文学とはなにか、文学をどのようにつくるか、文学をどのように受けとめるか、生きて行く上で文学をどのように力にするか−−本書はこれから積極的に小説や詩を読み、あるいは書こうとする若い人のための文学入門である。著者は文学の方法的・原理的な問題について考えを進めながら、作家としての生の「最後の小説」の構想を語る。

大江健三郎『新しい文学のために』 岩波新書

 この本は僕の本棚にずっと眠っていたものだ。奥付を見ると、2010年4月15日 第35刷発行、と書いてある。2010年は僕にとってターニングポイントとなった年だったが、その年に購入したのだと思う。だがそうして買ってみたものの、本書を数ページをめくって、本棚にしまってそのままになっていたのだった。

 買ったタイミングで本書を読まなかった理由。僕は大江健三郎の文体にそんなに慣れてはおらず、彼の文章を読み進めるのが苦痛とはいわないまでも、当時はすらすらと読み進めることができなかったし、何より書いてあることがストンと自分の中に入ってこなかった。当時の自分には早すぎたのだろうと思う。そういうわけで、まだその時ではない、と感じて読まずにいたのだった。

 それが、この本を手に取ったのはひと月ほど前。本棚を見ている時にふと目に留まって、何となく読み始めたのだが、とても心に響き、感心し納得しながら読み終えたのだった。

 たとえば「異化」と名付けられた、文学上の効果について。また、トリックスターやカーニバル、そして神話的な力が現代の文学にもたらす作用について。それらの一つひとつの事柄が、自分なりに解釈され、心の中にすっと入ってくるのを感じたとき、ああ、この本が読まれるべきタイミングに自分はようやく達したのだなと思ったのだった。

 買ってから14年も経ったあとで、このように新鮮な感覚でもって読むことができた、そのことに深い感慨を覚えたし、それもこの14年間小説を書き続けてきたからこそ、このタイミングが訪れたのだろう。

 振り返ると2010年から今までの時間はあっという間だったけれど、でもそれなりに悩みもがきながらも生きてきた、その積み重ねだったのだろうと思う。

 自分にとって、文学とはなにか、文学をどのようにつくるか、少しずつその輪郭が形になりつつあるタイミングでこの本を読むと、大江健三郎の投げかける思考と言葉が、自分なりに受け止められ、そうして自分自身の気づかなかった、もしくは無意識にやってきたことに光が当てられたような気がして、読んでいてハッと顔を上げることもしばしばだった。

 まだまだ学ぶことは限りなくある。そう思うと、これからが楽しみになる。







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丸山 篤郎
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