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森とクジラ (3)

 翌朝ミトが目を覚ますと、まだカーテンのついていない窓の外が明るくなっていた。スマートフォンを持ち上げて見ると、いつも起きる時間よりずいぶん早い。

 ベッドから降りて歩き出すと足元で木張りの床がミシミシと音を立てた。使い込まれて飴色になった床を素足で歩いていると、この家の歴史に直接触れている気がした。

 古ぼけた鏡の前に白い陶器のボウルが置かれただけの洗面台で、ミトは顔を洗った。白いボウルのなかで虹色に輝く水しぶきを手のひらに集めて顔につけると、冷たい感覚がミトの内側に染みとおっていった。小さな窓から部屋のなかに外の光が広がるように、雑音のない清浄さがミトの内側と呼応した。

 パジャマ姿のままキッチンへ行き、コンロにやかんをかけてお湯を沸かしながら昨日駅前のコンビニで買っておいた紅茶のティーバッグをポットに入れると、キッチンの窓から緑が見えた。初夏めいた日差しは樹々を照らし、ところどころに見えるライムグリーン色をした若葉が清々しく、まるで森のなかにいるようだった。隣家は樹々のむこう側にあるはずだが、ここからは見えない。やかんのなかでカラカラと音がしていた。水が沸点に近づいている。

 キッチンと続きになったダイニングルームで紅茶を飲みながら、ミトはチーズトーストを食べた。一昨日までビルに囲まれた都会の真ん中にいたのに、窓のむこうには樹々が生い茂っていた。自分がとても遠い場所にいる気がして、これからここで一人で暮らすのだと思うと、小さな不安が顔をのぞかせた。引っ越しを決めたのは自分のはずなのに、どうしてここにいるのかよくわからない気もした。

 ただ、緑がとても鮮やかだと感じた。

 窓の外で鳥が鳴き交わしていて、一羽がリズミカルに鳴くと、もう一羽がそれを変奏するように少しアレンジを加えて鳴き返した。二羽の鳴き声はミトがチーズトーストを食べ終わるまで続いた。

 荷物の片付けがようやく終わると、ミトは買っておいた焼き菓子の詰め合わせを持って、近隣の家に挨拶をして回った。どの家も出て来たのは年配の人たちだった。彼らから問われて一人で暮らすのだと答えた後も、好奇の眼差しで見られなかったのはよかった。

 挨拶回りが終わって家に戻ると、ミトはほっとした気持ちになって、居間から張り出した縁側に座った。見上げると庇の先から細い銀色の光が垂れ落ちていて、小さな蜘蛛が宙に揺れていた。巣を張ろうとしているのか、それとも糸を伝ってどこかへ行こうとしているのか、蜘蛛は短く細い脚を一生懸命に動かしていた。

 かさりと小さな音がして、ミトは庭を振り返った。

 庭と森との端境で何かが動いているようだった。森の手前に溝が掘ってあって庭をぐるりと取り囲んでいるのだが、その溝に何かがいるようだった。ミトは立ち上がって縁側を降りた。黒っぽい土が広がる庭には、所々に生えた丈の低い草が森へと続いていた。庭に転がっている小石がミトの足の裏にちくちくと食い込んだが、かまわず裸足で歩いた。

 庭の端までそっと歩いていくと、物音が止んだ。草陰になっていて、溝のなかはここからは見えない。

 立ち止まったままじっとしているうちに、あたりはしんと静まっていった。次第に、今まで気づかなかった遠くのかすかな音や、草むらのあちこちで動いている虫たちの気配が感じられた。裸足で庭の片隅に立っている自分が、目の前の森の一部になったような気がした。森のなかに差し込む日の光が、金粉のように散らばってあたりに溶けていくのが見えた。

 ミトが縁側へ戻ろうとすると、森の方でまたかさかさと音がした。さっきのやつかもしれない。

 ミトは生き物の正体を見てみたいと思った。素足のままでは追跡が難しそうなので、庭からそうっと玄関へ行って引き戸を開け、足の裏をはたいて土を落とすと、サンダルを履いて再び外に出た。

 ミトは庭を横切り、あたりの様子をうかがってから、溝をまたいで森のなかへ入っていった。草を踏み分けて奥へと歩いていくと、次第に見上げるような高木が増えてきた。それとともに、足にまとわりつくように生い茂っていた草たちが姿を消し、足元は歩きやすくなっていった。

 風が森の上を渡っていき、ミトの頭上で樹々がざわめいた。ミトが立ち止まって深呼吸をすると、かすかな湿気とともに緑の濃い匂いがした。草むらのどこかでかさかさと音がした。ミトはなるべく物音を立てないよう気をつけながら、生き物を追った。

 やがて茂みを抜けた先に、細い道が現れた。

 ミトはあたりを見回した。地面は長い年月をかけて人や動物に踏みしめられたように、むき出しの土が固くなって森の奥へと続いていた。見上げると木漏れ日が頭上から降り注いでいて、遠くで鳥が鳴いていた。時間はわからなかったが、森に入ってからまだそんなに経っていないだろうと思い、ミトは森の小道を奥へと歩きはじめた。

 四月の初旬だというのに、歩いていると汗が噴き出してきた。ミトは一歩一歩、サンダルの裏に土の起伏を感じながら、手の甲で汗をぬぐった。どこかでさわさわと水の流れる音がした。

 汗で背中に張り付いたシャツが気にならなくなった頃、ミトは樹々のトンネルをくぐって開けた場所に出た。

 目の前には、透明な水をたたえた泉があった。近寄ってみると、泉の底で小さな砂煙が舞い上がっているのが見えた。光の加減でコバルトブルーにも見えるその泉に、ミトはそっと右手をひたした。澄んだ冷たい感覚が指先を包み、ミトは全身が一度に目覚めたような気がした。

 草むらに隠れた泉の端からちろちろと水音が聞こえた。ミトは手をひたしたまま、ゆっくりと水をかき混ぜてみた。冷たくやわらかな感触が手のひらに残った。右手を引き抜いて、そのままゆっくりと首筋に当てると、さっきまで汗をかいていたのに、からだの奥がすっとした。

 泉のそばにしゃがみ込んだまま、ミトはしばらく目を閉じてじっとした。鳥たちがどこかで鳴き交わす声が聞こえた。人間がいても、いなくても、こうして鳥たちは毎日鳴き交わしているのだと思った。

 ゆっくりと目を開くと、金色の光が草や、泉や、ミトを照らしていた。

 鳥の声がひときわ大きく響き渡り、ミトが振り返ると、さっき歩いてきた小道を歩いてくる人影が見えた。ミトはさっと立ち上がるとからだを固くした。

(つづく)


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