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好きだった人と久しぶりに会ったような

先日、仕事で神戸へ行く機会があった。

高校を卒業するまで、ぼくはこの街で育った。これまで人生の半分を東京で暮らしているが、今も両親が住んでおり、故郷といえばこの街になる。

新神戸駅に夕方着き、ホテルにチェックインして荷物を置いた。シャワーを浴びて着替え、窓の外を見るとあたりは暗くなっていた。

ホテルを出ると、やわらかな風が吹いていた。毎年この街に帰省しているのに、その日は道行く人々も、新しい建物も、どこか遠いものに感じられ、ぼくは初めて来た街を歩いているような気持ちになった。

子どもの頃から何度も来たセンター街を歩き、以前のままの古い店や、すっかり様変わりした新しい店の前を通り過ぎた。細い路地をくぐり、さまざまな店の看板を見上げて歩けば歩くほど、ぼくはこの街のことを何も知らなかったのではという気がしてきた。

それはずっと昔に好きだった人と、久しぶりにからだを重ねたような気分に似ていた。お互いのことをよくわかっていると思っていたのに、それは思い出のなかで甘く味付けされた記憶であって、今の二人はお互いの知っている二人ではなかった、そんな感覚。

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かつての恋人をたしかめるように、ぼくは街のあちこちを歩いた。記憶のなかの恋人と、いまの恋人の姿は別のものだった。お互い歳をとり、時代も変わった。変わらないものもあれば、すっかり変わり果てたものもあった。だがその変わらない部分でさえ、ぼくのなかの記憶とうまく結びつかなかった。

ここはぼくの育った街なのだろうか。そもそも、ぼくはこの街のことを本当に知っていたのだろうか。

ぼくは自分の育った街に幻想を見ていたのかもしれない。当時は子どもだったし、この街のすべてを知っていたわけではなかった。どの街もそうであるように、この街にも美しい部分と、そうでない部分があった。

住んでみないとその街のことは本当にはわからない。二十年の時間が過ぎ、ぼくはこの街の人間ではなくなり、この街はぼくの街ではなくなってしまった。

幻滅と失望があり、それ以上に新しい発見と喜びがあった。この街のことがいまでも好きだし、特別な思い入れもあるが、同時にここはもう自分の場所ではないとも知った。

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もしぼくがこの街を離れずに大人になっていたとしたら。ずっとこの街で働き、生活していたとしたら。そんなことを考えながら夜の街を歩いた。

だが、別の人生なんて、きっとない。この人生がすべてだし、たとえどのような経緯をたどったとしても、ぼくはこの街を離れていただろうとも思う。

その夜の最後に、高校時代によく通った喫茶店に行った。スリランカの紅茶を出すお店だ。店の内装は新しくなっていたけど、雰囲気は昔のままだった。遅い時間だったが、店内は若いお客さんで満席だった。

ぼくは高校時代によく座っていた席に案内された。二十五年前のすべての記憶がぼくのなかを通り過ぎていった。今がいつなのか、ふとわからなくなった。自分がずいぶん遠いところまで来たような気がした。

あちこちの席で、若い男女が日々の出来事や、未来への希望を語っていた。かつてのぼくたちのように。

ぼくが離れたこの街に、新しい誰かが住みはじめる。時代とともに新しい姿へアップデートしながら場所は残り、街は生き続ける。

自分の育った街が、いつまでも活気にあふれた場所であってほしいと願っている。

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