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森とクジラ (13)

 その日、ミトは早起きをして簡単な弁当を作ると、いつも入っているポリタンクの他に弁当と水筒、レジャーシート、それから虫除けスプレーをバックパックに詰め、まだ薄暗いうちに家を出た。

 庭を横切り、森に分け入ると、泉へと通じる道をミトは歩いた。はじめはまだ夜の雰囲気が残っていたのが、次第にあたりが明るくなり始め、それとともに森のあちこちで鳥が鳴き出した。周囲の空気が沸き立ち、静かに、だが着実に、森が目を覚ましていくのがわかった。

 毎日、この森は生まれ変わっているのだ、夜に死に、朝に生まれる、そのサイクルを繰り返しているのだ、とミトは思う。そうしてわたしも今、生まれつつある。バックパックを背負い、こうしてキタムラさんが毎日踏みしめた道を歩くことで、わたしは新しい一日に生まれようとしている。時間と生命が連続する、いつも新しい今日のこの日に。

 泉にたどり着くと、木陰を探してミトはレジャーシートを敷いた。バックパックを下ろし、日焼けと虫除けを兼ねた長袖のシャツとパンツの上から虫除けスプレーを振りかけてから、ミトは木の根元にもたれかかって座り込んだ。

 何があっても、ミトは今日キタムラさんとこの泉で会おうと決めていた。ハタノさんには休むことを前もって伝えてある。キタムラさんがいつ来るのかはわからないが、彼女がやって来るまでミトはここで待つつもりだった。

 ミトはバックパックの中から弁当を取り出し、海苔で巻いたおにぎりを二つ食べた。おにぎりを頬張りながら、子どものころ聞かされた昔話のことがよみがえり、近くにネズミの穴はないだろうかと目を凝らしたが、おにぎりが転がり入っていく穴は見当たらなかった。

 もしネズミの穴があったとして、今食べているおにぎりがその穴の中へ転がり入り、ネズミからお礼に打ち出の小槌をもらったとしたら、自分はどうするだろう。白いお米がざぁらざら、大判小判がざっくざく、だが自然の中で異類から財宝をもらうというストーリーは、あくまで里に住む人の物語であって、森の中ではどうも説得力に欠けて聞こえる。森の中に財宝はない。ただ圧倒的な濃さで息づく生命があるだけだ。

 こうして木の根元に座っていると、木の影がじりじりと形を変えていくのがわかる。太陽が昇っていき、それとともにミトにまとわりつく蒸し暑さも重くなっていく。今日は暑くなるだろう、だが不安になるほどの暑さでなければいいが。毎年のように観測史上最高を更新していく夏の気温を考えるとき、この星に異変が起きているという事実から、もう誰も目を背けられない。そしてそれは、わたしたち自身に異変が起きているということと同義だ。なぜなら、わたしたちはこの星の一部なのだから。

 水筒を傾けて麦茶を飲み、振り返ると小高い山の稜線から黄金の光がほとばしるように溢れている。セミが鳴き始め、あたりを這い回る虫たちの気配をはっきりと感じる。こうして森の中に一人いても、不思議と恐怖を感じない。誰かがやってきたらどうしようという思いは心の奥で小さく身震いしている。だがその誰かがキタムラさんでないことはあり得ないと、ミトはなぜか確信している。


 不意に気がついて額に手をやると、じんわりと汗をかいていた。足元まで日向が近づいていて、ひどく暑い。ミトは木の根元を這い出して泉へ行き、両手で水をすくって飲んだ。清冽な感触が喉から胃へと通り過ぎていき、ミトの手からこぼれた雫が波紋となって水面にゆっくり広がった。今は何時頃だろう、ミトが見上げると、頭上高くに太陽が輝いている。

 ミトは濡れた手を首筋にあてがい、全身を巡っていくそのひんやりとした感覚に身を委ねた。目を閉じると、微かな幸福を感じる。ふと、あらゆる物事がシンプルに思われ、さまざまな考えや悩みが自分の中に見当たらなくなっているのに気づく。今、わたしは人間を離れつつある、とミトは思う。ヒトから動物へ、そしてただの生命へと長い時間をかけてやってきた道のりをあっという間に逆戻りし、かつていた場所へと帰っていく。感覚がとても鋭敏になっているが、それは狭い部屋で自分を押さえ込むような窮屈な不安には結び付かない。むしろ逆だ。わたしは広がっていく。ここから森全体へと、風に揺れる樹々の葉の一枚一枚、地を這う虫の足取りや、梢で鳴き交わす鳥たちの小さな振動、あらゆる生き物を包むこの森すべてへと、わたしの意識は広がっていく。この感覚、この幸福な意識の中にあの人もいたのだろうか、ゆっくりと、樹々に覆われた道を一歩ずつ踏みしめながら、この泉へとやってくるあの人も。

 ミトが顔を上げると、森の小道を抜けてやってきたキタムラさんと目が合った。

「こんにちは」
「まあ、こんにちは」

 ミトは立ち上がってキタムラさんを出迎えた。久しぶりに会うキタムラさんを見ると自然と両手が広がり、気がつくとミトはキタムラさんを抱擁していた。

「あら、どうしたの」
「ずっと待ってたんです」

 キタムラさんからは枯れた日向の匂いがした。キタムラさんの体は薄く、小さく、ミトは枝を手折らないよう注意する細心さでもってキタムラさんの体を抱きしめた。キタムラさんもミトの背中に手を回し、軽くぽん、ぽんと叩いた。大きくてあたたかな存在がわたしたちを包んでいるようだ、そう感じながら、ミトはキタムラさんからゆっくりと体を離した。

「ずっとキタムラさんとお話ししたかった。でもこうして会ったら、何から話せばいいかわからなくなりました」
「じゃあお水でも飲んで、木陰で休みましょうか」

 キタムラさんに促され、ミトは泉の水を一すくいすると両手で飲んだ。隣ではキタムラさんも泉のそばにしゃがみ込み、同じように水をすくって飲んでいる。二人は顔を見合わせると、近くの木陰に歩いていって腰を落ち着け、樹々の間からのぞく青空を見上げた。

 セミの鳴き声があたりに鳴り響き、ひときわ大きな鳴き声が近くで止んだかと思うと、小さな影がパッと空に飛び立ってどこかへ去っていった。蝉時雨を浴びながら二人とも黙っていたが、やがてミトはぽつぽつと話し始めた。町おこしの一環でグランピング施設を建設する計画が持ち上がっており、この森が再開発されようとしていること、そしてこのあたり一帯の森は代々キタムラさんの家が守り継いでいて、今はキタムラさんに所有権があるということ。これらすべてについて、自分はただの部外者であり、何を言う権利もないこと、だがそれでもこの森が切り拓かれることは、自分の体が失われるように辛く感じること。

「どうしていいか、わからないです、でも何か堪えきれないものを感じます」
「あなたはつながりが失われそうだと感じているのね」
「そうかもしれません、この森も泉も、あのお家も、わたしにとって特別なんだと思いました。そして」

 そしてあなたも。その言葉は飲み込んだまま、ミトは目の前のキタムラさんを見た。

「きっと、あなたは受け入れられたのね。あなたがこの森を受け入れたのと同じように。そうしてつながりが生まれた。与えたり、手に入れるだけではつながりは生まれないから」
「キタムラさん、わたしは敬意ということについて、オオノさんと話をしました。それは自然との敬意や、他人との敬意や、そういったあらゆるものに対する敬意のことです。そうしたら、オオノさんはわたしに再開発プロジェクトのチームに入ってほしいって言ってきたんです」
「あなたがいてくれたら、安心ね」
「そうですか? キタムラさんは本当にそう思いますか?」

 穏やかな目をしたキタムラさんを見ているうちに、自分の内側からコントロールできない熱いものが込み上げてくるのを感じたが、ミトはなんとか平静を保とうと努めた。

「プロジェクトチームに入れば、わたしはこの町で暮らし続けることができます。でも、同時にこの森を壊す手伝いをすることになります。それは嫌です。絶対反対です」
「ミトさん」

 キタムラさんはじっと何かを考えたあと、口を開いた。

「オオノさんとはずっと話をしてきたの。あの人は、町役場の人や商工会議所の人と私が直接話さなくて済むよう、間を取り持ってくれているのよ。彼は若いし、この町に来てまだ十年ほどだから、仲介役にぴったりだって言ってね。昔からの町の人間同士が直接ぶつからないよう、気を遣ってくれているのよ」

 風がざあっと吹いてきて、あたりの空気をかき混ぜ、どこかへ運び去った。樹々が揺れ、きらきらした木漏れ日を宿した影が地面の上で膨らんだりしぼんだりした。

「私の家はね、代々この辺りの土地を守ってきた。家の女は毎日この泉で水を汲んできた。私の母も、祖母も、曽祖母も、そのまた母も、ずっとね。私たちはこの森とつながって生きてきたのよ。それにどんな意味があるかって言ったら、何もないわ。特別な風習があるわけでもない、信仰でもない、ただこの森とのつながりを感じて生きる、それだけのこと。受け継ぐといっても、家の女でもこの森とのつながりを感じなかった人はいる、たとえば私の姉のようにね。でもそれはいい悪いじゃなくて、受け取るかどうか、ただそれだけってこと」
「そうしてキタムラさんも受け取ったんですね」
「そう、それから、あなたも」

 ミトはキタムラさんを見た。キタムラさんもミトの目をじっと見つめた。

「わたしにはわかりません」
「それは本人だけがわかること。でも、あなたはこの森から受け取ったのだと思う。だからこうして毎日、水を汲みに来ているのではないかしら」
「そうなのかな。やっぱりわからない。でも、つながりのようなものを感じます」
「もしあなたがそう感じるのなら、きっとそれが真実よ」

 そこで言葉を切ってから、キタムラさんは泉を見た。

「ミトさん、あなたは自分を部外者だと言いましたね。でもね、それはもう違うと思うの。あなたは何ヶ月もの間、この森へ来ている。この場所はもうあなたの一部になっている。それは決して一時的なものではないって、私にはわかる。だから、もしあなたが受け取ってくれるなら、私はあなたにお願いがあるの」
「何ですか?」
「私が死んだら、この森を継いでもらえないかしら」

(つづく)


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