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森とクジラ (8)

 リモートワークのヒアリングのため出社する日が近づいてくると、ミトは気が重くなった。普段乗っていない電車を乗り継ぎ遠くのオフィスまで行かなければならないことも、職場の同僚たちと会うことも億劫だった。

 その日いつもより早めに目を覚ますと、ミトは朝食をすませ、時間をかけてメイクをし、オフィス向けの服に着替えた。仕事用に使っていたショルダーバッグを担ぐと、不安な気持ちでミトは家を出た。

 ハタノさんが打ち合わせを十時に設定してくれたおかげでラッシュアワーを避けることができたが、それでも電車は混んでいた。駅で降りると、大勢の人たちが怖い顔をして足早に歩いていた。なぜ彼らがこんなに不機嫌な顔をしているのか、ミトにはわからなかった。もしかしたら以前の自分もこんな顔をしていたのかもしれない。そう思いながら、ミトは何かに急かされるように会社まで歩いた。

「お疲れさま」

 五階のオフィスにたどり着き、オフィスへ足を踏み入れようとして、でも迷って立ち止まっていると後ろからハタノさんに声をかけられた。

「なんだか雰囲気変わったね」

 面談用に予約した会議室にミトを案内するとハタノさんが言った。ハタノさんはブルーのストライプのシャツを着ていて、以前と同じようにメガネをかけていた。

「そうですか?」
「うん。前より元気そうに見える」

 ミトに席を勧めると、ちょっと待っててとハタノさんは会議室を出ていった。ミトは懐かしいイスの座り心地を確かめながら、大きく息を吐いて呼吸を整えた。合板製のテーブルの表面を撫でると、その機能的で安っぽい触感が愛おしく、そして同時に自分とは関係のないもののように感じられた。

 ハタノさんは紙製のカップに入ったコーヒーを両手に持って戻ってくると、一つをミトに渡した。カップを受け取ると、あたたかな香りが漂ってきた。

「ありがとうございます」
「インスタントでごめんね」
「この香り、懐かしいです」
「懐かしいですか」

 ハタノさんは苦笑するとノートパソコンを開き、それじゃあヒアリングをはじめます、と宣言した。プライベートなことや答えたくないことは答えなくていいです。そう言ってから、仕事の状況や、普段の精神状態についてまで、ハタノさんはゆっくりとした口調でミトにたずねていった。

 ミトはハタノさんの質問に一つひとつ答えた。仕事は問題なくできていると思います、大きなトラブルもないですし、うまく回ってるんじゃないでしょうか。普段は規則正しい生活をしています。健康状態も問題ありません。模範回答のように耳障りのいい言葉を並べながら、優等生っぽいとハタノさんに言われたことをミトは思い出した。

 ハタノさんはうつむきながら、キーボードをパタパタと叩いてメモを取っていた。ハタノさんは職場でにこやかな顔をしていることが多かったが、それが本心からなのか、職場での立場に合わせた振る舞いなのかはわからなかった。悪い人ではないのだろうと思う。だがどこまで手を伸ばせばハタノさんの本当の心に触れられるのか、ミトにはよくわからなかった。

 相手の本当の心に触れる必要なんてないのかもしれない。これはただの仕事上の関係なのだから。お金をもらって働く者同士、それ以上でもそれ以下でもない関係。でもそうなのだろうか、とも思う。自分にとってナチュラルな自分を、仕事でかかわりのある相手にも表現できたなら、もっと物事は創造的になるのではないだろうか。もしそれができていないなら、それは相手の問題だろうか、それとも自分自身の問題だろうか。

「そういえば、リモートワークだと一体感が感じられないって言っていたけど、それについてはどう?」
「そうですね」

 ミトはそう言ってから、以前ほどさみしさを感じていない自分に気づいた。それから、どう答えたらいいのだろうと考えた。別にさみしくなんかありません、と答えるべきなのか。それとも、直接顔を合わさないと仕事をしている気になれない、と答えるべきなのか。

 いつもそうだ。最初に答えを探してしまう。何がしたいかではなく、何をすべきかを考えてしまう。

 ハタノさんはノートパソコン越しにこちらを見ている。口元にさりげなく微笑みが張り付いている。ハタノさんはわたしにどんな答えを求めているのだろう。もしかしたら正解なんてなく、ただ感じたことを答えればいいのかもしれない。でも、思ったことをそのまま口にすると、相手は困惑するのではないだろうか。

 ハタノさんの眼差しが少しずつ怪訝そうな色に変わっていくのを見ながら、ミトは迷った。わたしは人とどう距離をとっていいかわからなくなっている。

 仕事でもプライベートでも、わたしは自分のなかに壁をつくって相手に接していた。あらゆる選択肢には正解があって、なるべく正しいルートに沿って行動することが大事だと思っていた。でもいまはそうではなくなっている。いまの自分は身に着けていた鎧が取れて、生身の自分をそのまま人前にさらしているような気がする。それは怖くて不安なことだが、同時に自由を感じる。

「いまはもう平気です」
「そう」

 ハタノさんは画面をのぞき込むと、キーボードを打った。うつむいたハタノさんは元気がなさそうに見えた。

「どうかしたんですか?」
「ううん。いや」

 キーボードを打つ手を止めて、ハタノさんが言った。

「うちのチームの席を見ていたら、ハギワラさんの席だけがぽっかり空いてるでしょ。メールはいつも見ていても、ハギワラさんの姿だけ見えない。なんだか不思議な気がしてね」

 カップに手を伸ばすと、ハタノさんはコーヒーを一口すすって飲んだ。

「世の中がどんどん変わっていって、働き方も変わっていって、戸惑うときがあるよ。一人ひとりの様子が見えないなかで、どうやってメンバーをケアしていけばいいんだろうって」
「ずっと同じオフィスで働いていて、急にわたしだけ離れた場所で仕事をするようになったから、余計にそう感じるんじゃないでしょうか」
「そうかもしれない。僕が感じているのはただのノスタルジーで、これからはもっと独立した個と個が仕事をするようになっていくのかもしれない」

 ハタノさんのくるくるとした巻き毛が会議室の照明を浴びて輝いた。子どもの頃からくるくるしていたのだが、そのせいでからかわれたこともあったと聞いたことがある。

「でも、やっぱり僕は目の前に相手がいる方がいいよ」

 顔を上げてそう言ったハタノさんと目が合った。

「あの」

 何かを言いかけて、だが何を言えばいいのかわからずミトは口をつぐんだ。会議室の外を誰かが話しながら歩いていくのが聞こえた。テーブルの上に置いたカップからコーヒーの香りが漂ってきて、ミトは手を伸ばした。口に含むと、コーヒーは少しぬるくなっていた。

「だけど、一番大事なのはハギワラさんが、あなたらしく働けることだから」

 落ち着いたハタノさんの表情を見ているうちに、ミトは不意に自分が彼らから遠く離れてしまったように感じた。

「どうしたの?」
「いえ、なんでもないです」

 ミトは笑みを浮かべようとしながら、目元を軽く押さえた。

(つづく)


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