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森とクジラ (5)


 契約したWi-Fiルーターが届き、新しい家でのリモートワークが始まった。

 毎朝まだ薄暗いうちから鳥の声が聞こえてくるので、ミトは自然と早く目が覚めた。雨戸を開け、顔を洗い、朝食をすませたあと、ノートパソコンを立ち上げる。メールをチェックし、書類を作成したり売上のデータをまとめたりして、十時には軽く休憩を取る。

 オフィスから一人だけ離れて仕事をするので、まじめに働いているところを見せなければと思い、ミトは頑張った。届いたメールをすぐ処理し、ビデオ会議には一番最初に参加した。だがそうしているうちに、いつも監視されているような気持ちになって、ミトは次第に疲れてしまった。

 リモートワークを始めて最初の金曜日、ハタノさんから電話がかかってきた。

「調子はどう?」
「はい、だいぶ慣れてきました」

 ダイニングテーブルの上でスリープモードになっているノートパソコンをぼんやり見ながら、ビデオ通話ではなく電話でよかったとミトは思った。

「仕事もいまのところ順調です」
「そう」

 ハタノさんは言葉を探すように少し黙ったあと、よかった、とつぶやいた。

「こちらから見ていても業務上の問題はなさそうだし、案外メールと電話だけで仕事って回るものなんだなって思ったよ。僕もリモートワークに切り替えようかな」

 そう言って電話のむこうでハタノさんは笑った。それから、ちょっと声のトーンを落として「なんだか声が暗いけど、大丈夫?」とミトにたずねた。

「そうですか?」
「うん、気のせいならいいけど、ちょっと疲れてるみたい」
「大丈夫ですよ」
「そう?」

 電話のむこうでハタノさんがしばらく黙った。窓の外で鳥が伸びやかな声で鳴くのが聞こえた。

「あの、いいかな」
「はい」
「ハギワラさんって、仕事もテキパキこなすし、熱心でいいと思うんだけど、ちょっと受け答えが優等生っぽいなって思うときがあるんだよね。それが悪いってわけじゃないんだけど、もしよかったら、あなたが本当に感じていることを聞かせてほしいな」

 ミトはダイニングテーブルの上に置いてあったマグカップを手に取り、黙って麦茶を一口飲んだ。たしかに自分は会社で演技をしているようなところがあって、それをハタノさんは以前からわかっていたのが、ミトは恥ずかしいような、腹立たしいような気がした。

「そうですね、まだリモートワークの距離感がつかめないっていうか、サボってるって思われないようにちゃんとしなきゃって、そんなプレッシャーがありますね」
「そうなんだね」

 電話のむこうでハタノさんがメモを取る気配が感じられた。

「考えすぎかもしれないね。こっちでは誰もハギワラさんのこと、そんな風に思ってないよ」
「そうですか」
「ある程度個人の裁量で仕事を進めてもらっていいので、成果さえ出ていれば、いつもパソコンに張り付いている必要はないよ」
「そう言ってもらえると、気が楽になります」
「うん。よかった、ハギワラさんから率直な意見が聞けて」

 ハタノさんはうれしそうな声で言った。

「他にも困っていること、ありますか?」
「そうですね、ちょっとさみしい気もしますね」

 会社の人にさみしいだなんて言うつもりはなかったのに、久しぶりに話したハタノさんの声が優しかったせいか、ミトはふとそんな言葉を口にしていた。

「さみしい、って?」

 ハタノさんは静かになって、ミトに次の言葉をうながした。

「業務連絡はほとんどメールで済みますし、ビデオ会議に参加するのも問題ないと思います。でも職場の人と顔を合わせる機会がないので、一体感がないっていうか、メールを書いていても相手との距離がうまくつかめないときがあって」
「うん」
「いまは知っている人とやり取りをしているからまだいいですけど、会ったことのない人とメールだけで仕事をするとしたら、やりにくいだろうなあって思います」
「社内の人が相手でも?」
「ええ」
「ビデオ会議があっても、そう感じる?」
「そうですね、やっぱりモニター越しだと伝わらない気がします」
「そういうものなんだね。その意見も運用状況のヒアリングのときに報告してね。大事なポイントだと思うし」
「わかりました」
「他に何かある?」
「特にないですけど……そちらの様子はどうですか?」
「こっち? 変りなくかな。ハギワラさんの席だけポツンと空いていてさみしいけど、他のメンバーも元気にやっているよ」
「よかった」
「新しい環境はどう?」
「そうですね」

 ミトはダイニングルームから家のなかを見渡した。

「まだ来たばかりですけど、あまりストレスがないというか」
「いい気分転換になるといいね。ハギワラさん、ここのところちょっとしんどそうだったから」
「そうですか?」

 自分ではストレスを感じている部分を見せていないつもりだったので、ハタノさんの言葉は意外だった。

「それじゃ」
「はい」
「次回の来社ヒアリングの件、またメールします」

 ハタノさんはそう言って通話を切った。

 スマートフォンをテーブルの上に置くと、部屋のなかが急に静かになった。ミトはハタノさんのことをしばらく考えた。それから、リモートワークの試験運用に選ばれたのは、自分がただラッキーだったからではなかったことに気づいた。

 隣家との間を隔てる樹々に高い角度から日が差し込んでいるのを眺めながら、不意にさみしさを感じてミトは戸惑った。この感情がどこからやってきたのか、なぜやってきたのかわからなかった。

 ミトはテーブルの上のスマートフォンに手を伸ばした。ひんやりとした感触がミトの指先でゆっくりとあたためられていった。窓の外で風が吹き、樹々はあちこちに影をまとって波のように揺れた。濃い影の色を見ながら、今日は暑くなるだろうとミトは思った。


 気がつくと夕暮れ時の日差しが縁側から居間にかけて斜めに影をつくっていた。

 ミトは畳からゆっくりとからだを起こした。今日の仕事を終えて居間で横になったら、そのまま眠ってしまったようだった。

 キッチンで水を飲み、玄関に行ってサンダルを履くと、ミトは引き戸をがらがらと開けた。西日がアスファルトを明るく照らしていた。ミトはキャップをかぶると、隣町で買った赤い自転車にまたがり外に出た。

 家の前の道路を走り交差点まで来て振り返ると、小山から続く緑の森に家はすっかり隠れて見えなくなっていた。森の片隅にほんのちょっと間借りをしているようなものだとミトは思った。

 ミトは前を向き、自転車をこぎ始めた。踏切を抜け、海岸線の道路に出ると、隣町とは反対の方角へ走った。やがて道路沿いに砂浜への入り口が見えてきた。スピードを落として砂まみれの小さな坂道を下ると、タイヤからじゃりじゃりと砂を噛む感触が伝わってきた。

 砂浜に立つと波の音が思ったより大きかった。ミトは自転車のハンドルを握ったまま、目の前の何もない空間から押し寄せる波の音に全身をさらした。波が砕けるたびに音が生まれ、それからゆっくりと消えていった。低い音が崩れるように空間に溶けてゆき、再びどこかで波が生まれた。

 これが海かとミトは思った。

 コンクリートの防波堤に自転車を立てかけ、ミトは砂浜を歩いた。海へ向かって進むにつれて、砂の色が湿って濃くなっていった。貝殻や海藻に混じって、ビニール袋の切れ端やペットボトルが打ち上げられていた。

 なめらかに濡れた波打ち際まで来て、少し迷ってからミトはサンダルのまま海に足を踏み入れた。水の表面はあたたかかったが、足首から下を冷たい感触が包んだ。サンダルのなかに砂つぶが入ってちくちくしたので、ミトはサンダルを脱いで手に持った。海はゆっくりと盛り上がると、波に砕けて海岸へ打ち寄せた。彼方の海のうねりを見ながらミトはクジラのことを思い出した。

 ふと振り返ると、遠くから何かが浜を駆けてくるのが見えた。

 目をこらすと、それは白っぽい毛をした犬だった。犬はまるで走ることそのもののように、砂浜の上を跳ね、宙に浮かび、午後の光を浴びて生き生きと駆けていた。

 犬はあっという間にミトの近くまでやってくると、そのままのスピードで去っていった。ずいぶん遠くまで行ってから、ようやく人間の存在に気がついたようにこちらを振り返り、しばらく立ち止まったあと、ミトの方へ駆け寄ってきた。

 犬は波打ち際までやってくると、舌を出してハアハア息をしながら砂浜の匂いを嗅いだり、不意に歩き出したりした。

 ミトは浅瀬に立ったまま、犬を眺めた。どこかで見たことのある外見をしていたが、どんな犬にも似ていない気もした。犬はミトに関心があるようで、だが時々ちらりと見上げるだけで、あたりの匂いを嗅いでいた。

 不意に犬が走り出し、その行く先に目をやると、サングラスをかけた長髪の男と、Tシャツに半ズボン姿の子どもがこちらにむかって歩いてくるのが見えた。

(つづく)


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