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森とクジラ (4)

 森の小道からやってきたのは、一人の老婦人だった。

 灰色がかった髪を後ろに束ね、紺色のジャージのセットアップを着た婦人は、少し背中が曲がっていたが静かな目をしていた。ミトと目が合うと軽く頭を下げ、婦人は泉の前にしゃがみ込んでじっと手を合わせた。なんとなく邪魔をしてはいけない気がして、ミトは物音をたてないようにその場で立っていた。

 やがて彼女は背負っていたリュックを下ろすと空のポリタンクを取り出し、泉の水を汲み始めた。コポ、コポと音を立ててポリタンクのなかに水が流れ込んでいき、ポリタンクがいっぱいになると婦人は蓋をきゅっと締め、リュックのなかにしまった。

「あの」

 何か言わなければいけない気がして、ミトは軽く頭を下げてから口を開いたが、何を言うべきか、もしくは何を言わないべきなのかわからず、そのまま言葉を失った。婦人はゆっくり立ち上がると少し怪訝そうな顔をして小首をかしげた。

「あの、この泉……きれいですね」
「ええ、そうね」

 婦人は背後を振り返ってうなずいた。

「ずっと昔からあるのよ」
「江戸時代とか?」
「ううん、もっと昔」
「有名な泉なんですか?」
「有名? そうねえ、昔からこのあたりに住んでる人なら知ってるでしょうね。でもあなた変な人ね、有名かどうかだなんて」
「いえ、ずいぶん昔からあるっておっしゃったから、よく知られた泉なのかなと思って」

 婦人はミトのことを面白そうに見ながら微笑んだ。

「この泉は枯れたことがないんだって、私の母が言ってたわ。その母も、そのまた母も、ここで水を汲んでいたのよ」
「この町のご出身ですか」
「ええ。ここで生まれ育って、大人になってもずっとこの町で暮らしてきたの」

 婦人は町の方角を見やりながら言った。

「わたし、昨日この町に引っ越してきたばかりなんです」
「あら、そう」
「この山のふもとにある、古い家に越してきたんです。庭があって、この山の森に続いていて」

 この人には言ってもいい、そんな気がして、ミトは彼女に新居のことを話した。

「森のなかから小さな動物の足音が聞こえて、それを追ってここまで来たんです」
「このあたりにはいろいろいるから。タヌキかもしれないわね」
「タヌキ?」
「あなた、それでここへやってきたの。小さな動物を追って?」
「はい」

 婦人はふうんとうなずいて、ずり落ちてきたリュックを担ぎ直した。彼女の背中で水の揺れる音がした。

「あの、この泉の水、飲めるんですか?」
「もちろん」

 婦人はそう言ってリュックを地面に置くと、泉のほとりにしゃがみこみ、両手で水をすくって口をつけた。飲み終わると、ぱっぱっと軽く手を振ってから、膝に手をついて婦人は立ち上がった。

「私はね、毎日ここへ来ているの。もう五十年以上になるかしらね」
「毎日?」
「だって水は毎日飲むでしょう。このお水でご飯を炊くといいのよ」

 婦人はそう言うと、リュックを拾い上げてゆっくりと背負った。

「皆さん、ここに水を汲みに来るんですか?」
「そうね、昔は何人も来ていましたけどね。でも最近は誰も見ないわね。みんないなくなったり、引っ越したりで、このあたりに住む人もぐっと減ったから。あなたはどうしてここへ越そうと思ったの?」

 ちょっと首をかしげてこちらを見る婦人の顔にはいくつもの皺が浮かんでいたが、それらは彼女の可憐さをまったく損なっていなかった。

「都会で暮らすのに疲れたんです」

 そう言ってから、ミトは初めて自分の気持ちに気がついたような気がした。そうだ、わたしはあの場所で暮らすことに疲れていた、毎朝英会話や美容整形の広告に見下ろされながら満員の電車に乗って、いつも速いペースで歩いて、欲しいものもないのに何かを買わなきゃいけない気がして。そんな生活に嫌気がさしていたのだと、ミトは思い至った。

「都会は人が多いから、疲れるでしょう」

 ミトの言葉を聞いて、婦人は心配そうな顔をした。

「ええ。自分が勝手にどこかへ運ばれていく気がするんです。それが怖くなるときがあって」
「人は自分のペースで歩いていかなくてはね」

 婦人がうなずきながら話を聞いてくれたので、ミトはなんだか彼女にすがりつきたいような気持ちになった。

「そしたら友達がこの町のことを教えてくれて、引っ越すことに決めたんです」
「あなたが新しく住むお家のことは、よく知っていますよ」
「そうなんですか?」
「ええ。あそこは元々は私の実家だったのよ」

 ミトはおどろいて彼女を見た。

「両親が亡くなってからは姉夫婦が住んでいたのだけど、義理の兄が亡くなって、姉が一人で暮らしていたの。でも施設に入ることになったから、住んでくれる人を探していたのよ」
「じゃあ、キタムラさんって」
「私のことよ。よくご存知ね」
「はい、オオノさんに聞きました」
「あなた、あの家に一人で暮らすの?」
「はい」
「何かあったら相談してね。私は毎日ここに来てますから」
「ありがとうございます」

 そう言ってミトはキタムラさんにお辞儀をした。

「さてと」キタムラさんはストラップに手をかけてリュックを背負い直した。

「そろそろ帰らないと。お昼よ」
「もうそんな時間?」
「だって日があんなに高く上って」

 ミトが見上げると、さわさわと風が渡る音が降りそそぎ、泉を取り囲む樹々の真上から光がこぼれるように輝いていた。

 振り返ると、キタムラさんは来た道へゆっくりと歩いていくところだった。キタムラさんの小さな背中に何か声をかけたいと思ったが、ぴったりの言葉が出てこず、ミトは彼女が森のなかへ消えていくのを見送った。

(つづく)


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