森とクジラ (6)
浜辺を歩いてくる長髪の男に見覚えがあるなと思っているうちに、オオノだと気づいた。
「あ、どうも」
オオノもミトに気がついたらしく、軽く頭を下げた。その後ろを、砂浜の上に何かを探しながらタロウが歩いている。
「先日はありがとうございました」
「今日は定休日ですか?」
「はい。ハギワラさんもお休み?」
「いえ、今日の仕事が終わったので、ちょっとサイクリングに」
タロウはサンダルのまま波打際に入っていき、そのあとを犬が追いかけた。犬は尻尾を振りながら飛び跳ねるようにタロウのまわりをぐるぐる歩いた。すぐにタロウの半ズボンは水しぶきでびしょ濡れになったが、タロウはそのままバシャバシャと水のなかを歩いていった。
「元気なお子さんですね」
「海が好きなんですよ。普段は海がないから余計にね」
「普段?」
「こちらには慣れました? ハギワラさん」
オオノはサングラスを外して後ろを振り返ると、防波堤に立てかけてある赤い自転車を眺めた。
「自転車があると便利でしょう」
「はい。隣町まで買い物に行くとき、海沿いを自転車で走ると気持ちいいですね」
「うちの息子も、そろそろ自転車に乗らせないとなあ」
オオノは目を細めて、波打ち際で遊ぶタロウと犬を見た。さっきより西の空に傾いた太陽が海を照らし、タロウも犬も黄金の光に包まれていた。ときおり大きな波が打ち寄せて砕ける他は、あたりは静かだった。
ミトはオオノと並んで立ったまま波の音に洗われていた。三十億年以上前からこの星で続く海のうねりは絶えることなく揺らぎ、砕け、浜に打ち寄せた。広がる海を前にしていると、ミトはただ存在しているだけで十分だという気持ちになっていった。
「海はいい。海を見ていると故郷にいるような気がしてきます」
「ご出身は海の近くですか?」
「ええ。小さい頃住んでいた町は海のすぐそばでした」
オオノは微笑みながら海を見た。笑うと日に焼けた目尻にシワができた。
「こないだのクジラ、ドキドキしましたね」
「あれはすごかった。ぼくも初めて見ました」
オオノが遠くを眺めたので、ミトも海面に目を凝らしたが、波がときどき黒くうねっているだけだった。東の海上には、サーフボードに座って波を待つ人の姿がいくつか見えた。黒色のウェットスーツに身を包んだサーファーたちは、パドリングもせず木の葉のようにただ波に揺られて浮かんでいた。
「このあたりの海は、ちょっとしたサーフスポットなんです。手頃な波で乗りやすい。海の近くに町営のキャンプスペースがあるから、わざわざ泊まり込みでやってくる人もいるんですよ。そうしているうちにここの海が気に入っちゃって、引っ越してきた人もいます」
「オオノさんも、サーフィンが好きでこの町に引っ越してきたんですか?」
ミトがたずねると、オオノは笑って首を振った。
「いや、ぼくは波乗りはしないですね。でも、ここが気に入って移住したっていう点では同じです」
「どこが気に入ったんですか?」
「そうだなあ、なんとなくっていうか、全体的に気に入ったんです」
「全体的?」
「こうして砂浜に立つと、とてもしっくりくる。この土地も、この土地にいる自分も、いいなって思う。それでここで暮らそうって決めたんです」
そういうものなのか、とミトはぼんやり思いながらオオノの横顔を見た。無精髭の生えた顎のラインがすっとしていた。
「あの、この町に引っ越してくるとき、以前のお仕事はどうしたんですか?」
「辞めました」
オオノはそう言うと、タロウと犬が遊ぶ様子を眺めた。
「外資系のコンサルティングファームにいたんですけど、そろそろ潮時かなと思っていたところだったから、いいタイミングでした」
「仕事を辞めるのって、勇気がいりませんか?」
「そりゃあ、もちろん」
オオノは両手を頭上に組んで背伸びをした。ポロシャツから突き出た両腕が空に伸び、オオノのからだは枝のように細長く見えた。
「自分としては大きな決断でした。当時結婚もしていたし。でも好きじゃない仕事を毎日続けるのはそろそろ限界かなと感じていたから、あまり長くは悩まなかったですね。やっぱり自分が本当に好きなことをやっていないと、不健康だと思うんです」
二人の前で波遊びをしていたタロウは、水のなかをじっと見つめながら、そろりそろりと歩きはじめた。その後ろを、尻尾を振って犬がついていった。
「ハギワラさんはこの町に引っ越してきて、お仕事はどうしたんですか?」
「仕事は続けています。会社でリモートワークの試験運用の募集があったので、それに申し込んだら受かったんです」
「じゃあ、期間が終わったら、元いた場所へ?」
「わからないです。まだこの町へ来たばかりですから」
ミトは首を振った。
「ただ、住む場所と仕事が結びつかなくなると、どうなるんだろうなって思います。自分では実感がわかないですけど、仕事にも生活にも変化が生まれる気がします」
「きっと変わるでしょうね」
オオノはうなずいた。
「ぼくたちが思っている以上に、住む場所はぼくたちに影響を与えますから」
タロウの姿を目で追いながら、オオノはジーンズのポケットに手を突っ込んだ。ひときわ大きな波が浜辺の手前で大きくうねり、二人の足元の近くまで水が押し寄せてきた。ミトの足先に触れようかというところで、水は海へ引き返していった。
「どこにいても同じ自分、っていうのはちがうんじゃないかって思いますね。やっぱりぼくたちは環境の一部なんですよ。それぞれの場所で暮らしているうちに、都会のネズミと田舎のネズミはちがってくる」
タロウと犬は波打ち際を歩いている。魚でも見つけたのか、彼らは慎重に探索行を続けている。そういえばタロウの母親はどこにいるのだろうとミトは思った。タロウの顔立ちはオオノによく似ていたが、ふと別の面影を感じるときがあった。
「ぼくは典型的な都会のネズミだったんです。資本主義のゲームのなかで勝つことが好きだったし、実際に勝ってた。住むところも着るものも、だいたい自分の望むように選べたし、毎晩遅くまで働いて稼いだ金で遊ぶのも好きだった」
オオノの口調に誇らしげな響きがなかったので、ミトは嫌な気持ちにならずにうなずくことができた。
「でもここの自然が気に入って実際に住んでみると、かつて自分がやっていたことがバカバカしく思えてきた。以前はクールだと思っていたことが、なんだかつまらない、意味のないことだったんじゃないかって」
「そうなんですか」
「当時は自分を客観的に見ることができなかったんでしょうね。つくられた消費欲求のなかで生きていたから。戦略コンサルをやっていたのでそういう仕組みはよく知っていたはずなんだけど、自分がそのシステムにうまく乗せられていたことには気づかなかったんです。都会のネズミの宿命です」
タロウと犬の探索隊がずいぶんと遠くまで歩いていくので、オオノはゆっくりと子どもの方へと歩き出した。つられてミトも波打ち際を歩いた。濡れた砂浜が素足にしっとりと触れ、振り向くとミトとオオノの足跡が波に消されず砂の上に残っていた。
「おーい、そろそろ帰るぞ」
タロウは父親の声に気づかないようで、水に手を浸したり、足で水底を踏みしめたりしていた。
「バロン!」
ひときわ大きな声でオオノが呼びかけると、犬はぴくりと立ち止まり、こちらに顔を向けたあと、舌を出しながら駆けてきた。犬はミトとオオノの手前に来るとぶるぶるっと体を震わせて水を払った。勢いよく跳ね飛ばされた水滴がミトの顔や手にかかった。
オオノはしゃがみこんで犬を迎え入れると、濡れるのもおかまいなしに頭や背中を撫でた。
「いい子だ。家に帰って晩ご飯の支度をしなきゃいけないから、タロウを呼んできてくれ」
オオノの顔を見上げていた犬は、背中をポンと叩かれると尻尾を振りながらタロウのもとへ駆けていった。
「かしこい子ですね」
「あいつがいてくれるおかげで助かってます」
オオノは濡れた手をポロシャツの裾でぬぐった。
「やさしいやつなんですよ。ぼくがひとりのときは、そばにいてなぐさめたり、はげましたりしてくれます。彼のおかげで、ぼくはこの町でやっていけているんだと思います」
バロンはタロウに駆け寄ると、ワンと吠えてタロウの周りをぐるぐると回り、それからわざと跳ね上がるようにしてこちらの方へ歩いてみせた。タロウが興味を惹かれて顔を上げると、ジャンプしているバロンの先に父親の姿を見つけた。
「おーい、帰るぞー」
オオノが手を振ると、タロウは同じように手を振って、こちらへ歩きはじめた。足取りがどこか幼い感じがして、頼りないような、可愛らしいような気持ちで、ミトはタロウがこちらへやってくるのを見た。
タロウはこちらへ歩いてくるあいだにも、足元を洗う波に気を惹かれては立ち止まり、また歩きはじめたかと思えば砂浜に残された波の模様をじっと見つめたりした。バロンは尻尾を振りながらオオノとミトの前を行ったり来たりして待っていたが、やがて待ちきれなくなったのか、再びタロウのもとへ駆けていった。
「ああやって息子の相手もしてくれる。ありがたいですよ。牧羊犬の血が入っているのかもしれない」
「仲がいいですね」
「息子が生まれたときからずっと一緒だから、兄弟みたいなものです」
追いかけっこをするようにタロウとバロンがこちらへ走ってきた。人間の子どもと犬はそのままミトたちの前を通り過ぎ、少し色が濃くなってきた東の空の下へ駆けていった。
「走るとなったらどこまでも走る。加減ってものを知らないんだ」
そう言ってオオノは歩きはじめた。なんだか父親と息子のあいだに大きな隙間があって、そこを潮風が吹き抜けているみたいだとミトは思った。
赤い自転車を立てかけてある防波堤の近くまで戻ってくると、オオノはミトを振り返ってポケットをごそごそした。
「また、うちの店に遊びにきてください。あれ、カード渡したっけな」
「ええ、こないだいただきました」
「あ、そうか」
ちょっと恥ずかしそうに笑うと、オオノは片手を挙げてタロウとバロンのあとを追って歩いていった。
ミトはオオノたちを見送ると、砂浜にしゃがみ込んで足の裏の砂を払い落とし、サンダルを履いて自転車にまたがった。
ペダルをこぐ前に海を振り返ると、砂浜にはミトたちの足跡がうっすらと残っていた。打ち寄せる波が次第に足跡へと手を伸ばしていたが、足跡をすっかり飲み込むにはまだ時間がかかりそうだった。
(つづく)
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