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普通の親子関係にこそ含まれる憎悪

この記事は、マルセル・モースの『贈与論』やデヴィッド・グレーバーの『負債論』なんかを読んでいると分かりやすくなると思うよ!


最近ふと思ったことがある。
とりたてて「毒親」というわけでもない、ごく普通の、なんなら良好な親子関係の中にこそ・・混じらざるを得ない一抹の憎悪があるのではないか、と。

それは親子の関係が実質的に対等ではなくヒエラルキーに基づいたものであること、ならびにヒエラルキーの関係が固定化していることによる。

言うまでもなく、親が子を養い育てる以上、親子の間には「親が上、子が下」という覆しがたいヒエラルキーの関係が成立している。
この関係は子どもが成長して自立するまでの十数年から二十年以上にわたって継続する。当然その間、子どもは親からの養育という「贈与」を受け続け、それによって親への「負債」を返済できないほどにため込むことになる。

まずここに、施しを受ける者が、施しを与える者に対して抱く憎悪が生じる。
上の者から与えられる「施し」ほど、人の自尊心を削るものもそうそうあるまい。人はなんだかんだで自分が「自立しており、他者に頼らず意思決定できる」存在であることを重んじているのだから。

施しを受けるということは翻って「お前は誰かの庇護と指図を受けなければ生きていけない、未熟で不完全な存在だ」と言われるに等しいのである。
確かに子どもはそういう存在だろう。だからといってこの説明は、彼らの自尊心が削られ続けることの慰めにはならないのだが。
そして、この説明が子どもへの慰めにならないがゆえに、贈与とそれが生む負債は、必然的に憎悪を生むといえるのだ。

いわゆる毒親の場合、この「負債」はなくなる、もしくはずっと軽くなる。
それゆえに「負債」と結びついた憎悪は、むしろ毒親以外・・・・の親子関係にこそ強く見られるのではないかと思う。

補足

しかも、この世には親から子への「無償の愛」という神話があるのだ。これも相まって、子どもは親から受けた庇護や「愛」への返済が理念上不可能となる。
成長した子どもが親に対して援助をしたとしても、それは理念上、子どもの頃に負った負債の「返済」にはならない。なぜなら、親が子どもを育てたという事実は「無償の贈与」として捉えられているからだ。
子がどんな親孝行をしようが、親から子への養育という贈与が「対価を求めることなく」行われてしまった以上、養育そのものへの「支払い」はできない。無料配布のペーパーをもらって、差し入れを渡したとしても、差し入れがペーパーの代価というわけではないのと一緒である。

つまるところ、親孝行とは「親との関係を継続するための新たな贈与」であって、過去の養育に対する「支払い」ではないのだ。
そして親子関係は、成長した子どもが何をしようが、一生解消されることのないヒエラルキーの関係として続いていく。

だというのに、親子関係には「成人して働き出したら親子は対等」という建前もあるのである。
「ヒエラルキーがある」という現実と「成人したら親子は対等である」という建前のギャップ。子どもはここで板挟みになる。

本当はヒエラルキーがあるから、親にはなかなか好き勝手言えない。最低でも親に物申せるようになるには、成長して働き出すまでの時間を要する。その間も、親は子どもに好き勝手言えるわけだが。
しかし建前上「成人同士は対等」ということになっているから、成人後の「言えるわけないじゃん!」「親のああいうところが嫌だった」という言葉は、自力で克服されるべき個人的な弱さとして片づけられてしまう。「もういい大人なんだから、親の言いなりになるもならないも自己責任」「親のせいにするな」というわけだ。
自立前の子どもに至っては親に生殺与奪の権を握られているから、「言えるわけない!」の傾向は更に顕著だろう。

ここで、子が親に対して抱く復讐心は鬱積することになる。宿命的に一方的な施しを受け、ヒエラルキーの下位に留めおかれ、(極めて悪意をもって表現するならば)親の持つ「こうあるべき」像の押しつけという攻撃を受けた──そのことに対する復讐心である。

しかし、子どもが社会で暮らしていける「人間」になるためには、多かれ少なかれ「攻撃」を受けなくてはならない。

「攻撃」というと、虐待だとか、意に反して過酷な受験戦争に参加させられるだとか、古い価値観の押しつけだとかを想像しがちだが、何もそれだけではない。
「公共の場で騒がないよう叱る」みたいな、普通の躾の範疇にあることもまた、構造上は子どもの意思や欲求への攻撃の形をとってしまう。

つまるところ、「攻撃」であるからといって必ずしも悪ではないし、悪意をもって行われているわけでもないのだ。なんなら世間一般的に必要とされることさえある。
だがそれでも、それは「子どものありのままの姿の否定」という攻撃の形をとらざるを得ないのである。

親は子どもをまともな「人間」にするために、嫌われ役を買って出てでも、それなりの「攻撃」をしなければならない──ある意味、親というのは損な役回りといえるだろう。

補足

「毒親」であれば、まだ気楽に復讐できた。大義名分があるからだ。しかし、自分の親が「よき親」であればこそ、奥底で燻る復讐心は呑み込まなければならない。
「自分の親はよい親だと思うし、親孝行をしたいとも考えている。だが不思議と、どうしても許せないところがある」──この複雑な気持ちを説明できる概念はない。
概念(あるいは道徳)というのは単純だ。だからこそ我々は「よき親に対して憎悪を感じることはない。それはあるまじきことだ」と無批判に信じきってしまうのである。そして現実とのギャップに首を傾げることになる。

さて、これを読んでいる貴方は「復讐心」と聞いてギョッとしただろうか? 「親に復讐心を抱く子ども」と聞いて「反抗期」とか「子どもっぽい振る舞い」だと思っただろうか?
仮にそう思ったのだとすれば、それこそが、この構造的近親憎悪の根深さを示しているといえるだろう。

そもそも、

  • 親から受けた「愛」「養育」という贈与に対して、子どもが「親孝行」をしようと思うこと

  • 親から受けた「屈辱的な下位への抑留」「意思の否定」という攻撃に対して、子どもが「復讐」をしようと思うこと

両者は「親から子への贈与と、それに係る優位性」という同一の事象に対する二つの違った反応であり、必然的に同時に生じることになるものなのだ。
贈与が「(少なくとも表面上は)見返りを求めない愛」と「ヒエラルキーを生じさせ、固定化するもの」という二つの側面を持つ以上、両者は表裏一体である。一方が生じれば他方も生じる。
だからこそ「愛憎」という言葉があり、「愛の反対は(嫌悪や憎悪ではなく)無関心」などとも言われるのだろう。

そのため、上の二つの感情はどちらもごく当たり前のものとして、並行して存在するといえる。
しかし、前者は意識され推奨される一方で、後者は意識されないか、意識することさえ許されないか、「反抗期」「子供っぽい振る舞い」で片づけられるかのいずれかである。

なぜなら、後者の感情は「親から受けた恩を忘れたのか」という「負債─返済」の倫理で封殺可能だからだ。
借金を苦に自殺する者すら現れるほど、現代における「負債─返済」の倫理は強力だ。どんな事情があろうと、それこそ人命がかかっていようと、負債は返されなければならない。

──ゆえに「返済ができないのであれば、尊厳や発言権が奪われるのもやむなしだ」という帰結が導き出される。しかも先述の通り、子が親に負った「負債」は理念上、絶対に返済することのできない類のものなのだ。
結果として、子が親に対して当然に抱く「復讐心」は、倫理的に許されないものとして弾圧され、記憶の彼方に押しやられることになる。

つまるところ「大人になる」とは、前者の「親孝行、恩返し」だけをし、後者の「復讐心」を忘れる、あるいはぐっと呑み込むことなのだろう。
この点について、「大人になる」直前の段階として「反抗期」が考えられているということは興味深い。反抗期の子どもは親からの「お前はこういう人間だ」「こういう風にすべきだ」という「石化攻撃」に対して徹底的に抵抗する。
だが、その抵抗はいつしか乗り越えられて終わるものとして描かれるのだ。そうして人は大人になっていく。攻撃に激しく抵抗することをやめ、復讐心を抱き続けることをやめる。親子間のヒエラルキーを「そういうもの」として割り切って、諦める。

「親から子への無償の愛」という神話に対するカウンターは、ここにある。
つまり、親から受けた「攻撃」を許し、復讐を断念することこそが「子から親への無償の愛」──献身なのだろう。

親から子への愛は、少なくとも親の自意識上は100%の善意であり、見返りを求めていないのかもしれない。
しかしこの愛は、人から人になされた贈与である以上、必ず根底に一種の「攻撃」を含んでしまう。そしてこの「攻撃」の一部は、子どもが「人間」となって社会で生きていくためにはやむを得ないことでもある。
だからこそ、子どもはいつか「攻撃」が必ずしも悪意によってなされたのではないと理解して、自身の復讐心をしまい込むことを決意するのである。明らかに教育や躾の範疇を超えた不快な石化攻撃も含めて「そういうものだから」「親は親、私は私だから」と飲み下すのだ。

けれど、そこには確かにわずかばかりの憎悪が隠されている。これは現象であって、良いとか悪いとかいう話ではない。仕方のないことだ。
「敬愛」と「復讐心」という子どもの中で同時に生じる二つの感情のうち、一方だけを抑圧しているのだから。

ただ現在の親子関係の倫理の中に歪みがあるとすれば、「愛」と「憎悪」が近縁の感情であるにもかかわらず、同時に抱くことはないという風にみなされている点だろう。
「惜しみなく愛して与える」ことと「惜しみなく見下して/憎んで傷つける」こととが、同じ相手に対して同時に起こるのはあり得ないと思われているのだ。

だが実際には、惜しみなく与え合いつつも惜しみなく傷つけ合うのが、人間の感情の本来のあり方なのではないか?
そして、そういう非合理的で矛盾した感情の発露が許されないからこそ、親子関係は良好であってもなお、根底に一抹の解消しがたい憎悪を含んでしまうのではないかと思うのだ。

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