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カルヴァンの予定説に関する覚え書き

確か、宇野重規『西洋政治思想史』(有斐閣アルマ、2013年)に書かれている内容だったと思います! でも、記憶が定かじゃありません!! ごめん!!!

学校でカルヴァンの予定説について習ったとき、皆さんはどのように教わっただろうか?

その人が救われるのか否かは、生まれた時点で神によって決定されているため、その人自身の行いと救いとは無関係である。
「神に選ばれたから、努力する」のではなく「努力しているから、自分は神に選ばれている」と信じる考えであり、利益を努力の成果物とみなすという点で、商工業者に支持された。

↑大体このように習ったのではないかと思う。
ただ、上記の説明を聞いて、このようにも思わなかっただろうか?

自分の努力と救われるか否かが無関係なら、どうして努力しようとするの?
「自分は救われる」って確信するため? でもそれって、動機として弱くない?
ってか、「努力しているんだから、自分は神に選ばれているはず……!」って信じようとするのが、そもそも理にかなってなくない?
だって生まれた時点で、救われるかどうかはもう決まってるんでしょ? 自分にできること、ないじゃん。
「努力したけど、神に選ばれていなかった」って場合とか、考えないわけ?

↑少なくとも、中学生(高校生?)のときの私はこう思った。
今日は、これらの疑問を解消するための、一つの視点を紹介したいと思う。

その視点とは、「人間は本質的にダメダメ」というものである。

人間は、本質的にはダメダメだ。
だから、神の恩寵がなければ、神を信じることも、まともに努力をすることもできない。
「神を信じ、努力ができている」という時点で、それはその人が神に選ばれ、恩寵を受けている確固たる証拠なのだ。

この視点を導入すると、先述の疑問点は一気に解消される。

  • 自分の努力と救われるか否かが無関係なら、どうして努力しようとするの?

→努力「する」ということと救われるかは無関係だが、努力「できる」ということと救われるかは関係があるから。
ひたむきに努力「できる」能力があるということを、自らに証明するために、努力しようと「する」のである。

  • 「自分は救われる」って確信するため? でもそれって、動機として弱くない?

  • 「努力しているんだから、自分は神に選ばれているはず……!」って信じようとするのが、そもそも理にかなってなくない?

→「努力しているんだから、自分は神に選ばれているはず」ではない。「努力できている時点で、どう考えても自分は神に選ばれている」のだ。
自分の行いによって救われることはできないかもしれないが、自分の行いによって自分が救われるかを「知る(「信じる」とか「確信する」とかではなく、確固たる事実として認識する)」ことはできる。

  • 「努力したけど、神に選ばれていなかった」って場合とか、考えないわけ?

→本質的にはダメダメである人間が努力できている時点で、神の恩寵を受けていることは確定している。
そのため「努力したけど、神に選ばれていなかった」という事態は、そもそも起きえない。

どうだろう。ずいぶんスッキリしたのではなかろうか?

カルヴァンのこのような思想からは、
⑴神の絶対性の重視
⑵人間自身の能力への疑問視
を読み取ることができる。

これは、古くは教父アウグスティヌス、もう少し時代を下ると、ドゥンス・スコトゥス批判を行ったオッカムのウィリアムなどの思想の系譜に属する。

西洋における人間の能力に関する思索は、「人間はダメダメ派」と「人間も捨てたもんじゃない派」に分かれて展開してきたこともあり、カルヴァンの考えはとても興味深い。

以下戯言↓

アリストテレス風にいうと、
努力できる能力があるもの=可能的に努力するもの(第一の現実態、英語でいうとbe)
努力するもの=現実的に努力するもの(第二の現実態、英語でいうとdo)
ということになるだろう。

神の恩寵は「努力できる能力がある(be)」ということの方にかかるため(現実に努力するということは、努力できる能力があることの単なる証明である)、
プロテスタント的に重要なことは「自分が何をするか」ではなく「自分が何者であるか」ということだったはずだ。

To be, or not to be, that is the question.

シェイクスピアの『ハムレット』に登場する、このあまりにも有名な一節が示しているのは、まさにそのことなのではないか。

この一節に続けて、ハムレットは、欺瞞や誤謬に満ちた世界で今のまま生きていくのか、それとも思い切って父の仇に復讐するのか、苦悩する。
復讐をするか、しないかが問題なのであれば、"To do, or not to do"と書いても良さそうなものだが、なぜかそうではないのが面白い。

それはきっと「具体的に何をなすべきなのか」というよりも、
「自分がどのようにあるべきなのか(どのような精神を持つべきなのか)」を重視する考えの表れなのではないかと思う。

ちなみにアリストテレスは、「第一の現実態である魂が、能力を行使する道具としての器官を持ち、可能的に生命活動ができる身体と結合することで、見ること、食べることといった第二の現実態が生成する」と主張した。

…ゴチャゴチャと小難しい言い回しになってしまったが、要するに、人間の本質たる魂は「能力がある」という状態であるということだ。

まあ、古代ギリシア人も、"be"が大事だと考えていたというわけである。

そう考えると、つくづく人間の考えることは変わらないと思う。
また、西洋思想はやはり、ヘレニズムとヘブライズムから流れを汲んでいるのだろうとも感じる。

さて、長くなってしまったので、今回はここまでとする。
それでは、また。

【追記】
しかしながら、アリストテレスは「日々行使することによって、能力は維持される」と考えてもいたので、かなり"do"を重視した哲学者であるともいえそうだ。

参考文献

  • アリストテレス著、桑子敏雄訳『心とは何か』(講談社学術文庫、1999年)

  • 宇野重規『西洋政治思想史』(有斐閣アルマ、2013年)

  • シェイクスピア著、福田恆存訳『ハムレット』(新潮文庫、1967年)

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