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「性別」という概念の話

「この世には男か女かしかいない」
「肉体の性別が本当の性別だ」
「性別を『性自認』などといって、概念的に考えようとするヤツは間違っている」

↑こういうこと言う人っていますよね。今日はこれについて考えます。

「最近、何でもかんでも多様性だなんだとうるせぇ!」
……という人は、ここで帰ってください。じゃあの。

ちなみに、結論から先に言うと

「仮に『肉体の性別=本当の性別』ということが『真実』なのだとしても、『心の性別=本当の性別』という『嘘』を『真実』ということにしておいた方が、より多くの人を幸せにできる」
「だから、例え嘘なのだとしても、なお後者の方が良い」

……となります。長くてごめんね!!

この世界はフィクションに溢れている

そもそもこの世界は、これでもかとばかりにフィクション(嘘、虚構といっても良い)で溢れかえっている。
とはいっても、漫画やアニメの話ではない。

いわゆる「擬制」と呼ばれるもののことだ。
擬制──ひょっとすると、耳馴染みのない言葉かもしれない。

大雑把に言うと
「誰もがそれを事実でないと知りながら、事実であるものとして扱うこと」
である。

…これだけ言われても、いまいち分かりにくいから、具体例を挙げてみよう。

例えば、「人権」はフィクションだということができる。

人権。
人間であれば誰もが持っている、侵すことのできない権利。

そんな人権をフィクションだと言ったら、反発する人が多いかもしれない。

だが、少し考えるだけで、ツッコミどころは沢山見つかることだろう。

「人間であれば誰もが持っていて、侵すことはできない」というのなら、どうして世界ではかくも多くの人権侵害が起こっているのだろうか?

「人権成立の歴史」? 昔の人には人権というものがなかったのか? 「人間であれば誰もが持っている」のに?

どうしてわざわざ「人権宣言」なんて出さなくちゃいけなかったのだろうか?
どう考えても人権侵害なのに、過去に絶対君主が恣意的な権力を振るえたのはなぜか?

それは、「人間であれば誰もが持っている(当然、ここには過去の人間も含まれるはずだが……)」「侵すことができない」というのがだからだ。

もちろん、理念の上では「人間であれば誰もが持っている」「侵すことができない」というのは本当なのであろう。
だが、実際には、大昔の人間は人権というものを持っていなかったし、(変な言い方だが)私たちは人権を侵害するような行動をとることができるのだ。

人権は実在するのではない。
我々人間の努力によって、実在するということになっているのである。

なぜなら、そういうことにしておいた方が沢山の人を幸せにできるし、「人権なんて嘘っぱちだ!」なんて言ったところで、前近代に逆戻りしてしまうだけなのだから。

他に、「社会契約論」「お金」なんかもフィクションだといえるかもしれない。

少なくとも私は、統治権力を生み出すような契約などした覚えがない。
あんな紙ペラや口座残高という名の数字の羅列が価値を持つのは、人々が「そういうことにしているから」に他ならない。

そもそも、現在の世界はフィクションに溢れ、フィクションによって支えられている

事実だから優れているとは限らない

さて、「人権」「社会契約」「お金」──例えこれらがフィクション(=嘘、虚構)であるからといって、完全に否定してしまったらどうなるだろう?

自由も平等も生命も財産も保障されない世界。
同意ではなく暴力によって成立した(革命や改革というものはいつだって暴力的だ)のだとおおっぴらに言うような、強権的な政府による統治。
価値の保存も交換もままならない原始的な経済。

これらは紛れもない、事実だけの世界である。
だが、そんな世界を望んでいる人などいないだろう。

「嘘だ」という、ただそれだけの理由でフィクションを否定したところで、良いことは特にないのである。

「事実じゃん」

この言葉には、こう返しておこうと思う。

「事実だからどうした」
「クソの役にも立たない事実よりは、役に立つ嘘の方が断然良い」

観念の価値は、それが「事実であるか」というところよりも、「役に立つのか、より多くの人を幸せにするのか」というところにあるんじゃないのか?

「性別」という概念の話

さて、それでは本題に入ろう。
とはいえ、話の骨子は既に書いてある通りだ。

「肉体の性別が本当の性別」
「心の性別が本当の性別」

私は、これらの主張のどちらが本当でどちらが嘘かなんて、争うだけ無駄だと思っている。

(まあ「後者が本当であって欲しい」くらいのことは思っているが……)

なぜなら、それが本当かどうかに関わらず、後者の主張の方が全体をより幸せにすると考えられるからだ。

前者の主張は、せいぜいシスジェンダーの人くらいしか幸せにしない。
一方で、後者の主張はシスジェンダーの人のみならず、その他の人をも包摂することができる。

※ここで重要なのは、後者の主張がシスジェンダーの人を不幸にするものではないということだ。
いくらマイノリティの人たちが幸せになれるとしても、それでマジョリティの人たちが不幸になるのでは意味がない

だから後者の方が良いといえるのだ。
それが事実か否かなど、究極的にはどうでも良い
仮に嘘なのだとしても、みんなで協力して事実ということにしてしまえば済む話である。

もちろん、スポーツや風呂・トイレの問題など、無邪気に「心の性別が本当の性別だ!」とばかり言っていられない場面もある。

そういった場合には、ある施策によって、「どのくらいの数の人が」「どれだけ幸福/不幸になるのか」ということを慎重に検討しなければならないだろう。

マイノリティだけが幸せになり、マジョリティは不幸になる施策があるとすれば、(マイノリティには気の毒だが)当面はその施策を行うべきでないのだ。

(↑「当面は」の部分について、本当はもう少し話したいのだが、長くなりそうなので今度にする)

だが、マジョリティを不幸にするわけでもないのに、無闇にマイノリティの権利を制限しようとするのは全くもって不合理である。

「心の性とかいうけれど、身体の性は男か女かしかない。事実だろう?(DSDの人々の存在を鑑みれば、この主張はそもそも間違っているのだが)」
「男と女が結ばれるのが、自然の規定した真理だ」

仮に、これらの主張が真理だったとしても、もはや大した問題ではない。
そろそろ、役に立たない「真理」とやらを断捨離する時期が来ているのだ。

(正直、LGBTQ+周りの権利云々に関して色々と思うところはあるのだが、話が長くなりそうなので、今回はこの辺りにしておく)

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