【努力考察】僕はねぇ…正しいことが正義だと思っていたんだ…

正しいと思うことに従って生きたい。


そんなふうに考えたことはないだろうか。


私は、行動の選択を行うとき、それが『正しいか』を常に考えてきた。


たとえば、今から2時間の空きがある。眠くはないし疲れてはいない。

ではダラダラするか、それとも勉強するか。


このときに、何かの映画を見るとかの特定の目的を持たないと、ダラダラは本当の意味でダラダラになる。すなわち目的を持たない時間の浪費。


一方、勉強を選択した場合のオチは大体見えている。

そう、疲れる。


この無目的な時間浪費か、疲れる結末が見えた時間消費か。


どちらが疲れないかは明白。ダラダラである。


そこで、どちらが正しいかについても考える。

例えば、2週間後に何かしらの資格試験の本番が迫っているとしたら、それに備えるという観点では、勉強するほうが正しいと言える。




ちょっと一般化して、勉強すること自体が正しいかどうかを考えると、義務教育なんてものがあることからも、おそらく正しいと思う。


また、私が取り組んでいる筋トレについても、筋肉がある/ないについては、筋肉があるほうが正しいと思うから、行っている。


一般的にそれが正しいから、その正しいことに従っていること自体に、自分の自己肯定感の源泉を求めているということ。



だが一度立ち止まって考えたい。


それは正しいのか?



そもそも『正しい』って何なのかからさかのぼる。


googleで『正しい』を検索したら以下のように出た。

道理や法にかなって、誤りが無い。


では、『誤り』は?

道理から外れたこと。正しくないこと。


正しさの真逆というか。対極の意味になっている。


もう少し掘り下げる。『道理』とは?

物事の筋道


『筋道』とは?

物事を行う時に踏む順序(に現れる理)


『順序』とは?

事を行う際の決まった手順。仕事などの段取り。

『決まる』とは?

不確か・未決定であった物事が最終的にはっきりして、動かない状態になること。


これらをまとめると、『正しい』は以下のような意味と考えられる。

物事を行う時に踏む、不確か・未決定であった物事が最終的にはっきりして、動かない状態になった手順にかなって誤りがない。


ということで、正しさを定義するためには、動かない状態すなわち定常状態が必要という解釈になる。


この定常状態だが、例えば公園のブランコが止まったような状態。

すなわち、子どもが遊んでいる際は振り子のように振動しているが、子どもが降りた後は、金具の摩擦等によるエネルギー消費からとまる、この最終的にたどり着く状態。

または、冷蔵庫から出してずっと室温に放置したジュース。初めは冷えていても、室内の空気に熱エネルギーが移動して、見かけ上温度が変わらなくなること。


説明上、物理の概念みたいなものが出てきたが、現実世界でこんなにうまくいくものはあるのだろうか。


人間一人の一生だって、小学生の頃の考え方と高校生のときの考え方は変わりえる。

その個人にとってその当時に絶対的に正しいと考えていたことも、高校生の時には間違っていたことと気付くこともある。


でもその小学生の頃に、高校生の時の考え方など存在しえないのだから、そのときの考え方(=一時的ではあるが定常状態の考え方)以上の発想は生じえない。


だから、いま正しいと思う、現状の安定した価値観にしたがって、正しいと思うことをするほかない。


その時に考えている正しいことこそが、そのときの自分にとっての正義なのだから。


普遍でない価値観の流れにおいて、そのときの正義を。


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