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エンジニア人生を振り返る - 父ちゃん会社やめるぞ!編

福岡でVR・アプリ開発をやっている株式会社OneSmallStep西です。

これまでの、サラリーマン→個人事業主→ベンチャー創業CTO→ベンチャーにCTOとしてジョインというエンジニアとしての歴史を振り返ります。

エンジニア人生を振り返る - エンジニアデビュー編」の続きです。

父ちゃんはエンジニア

2007年26歳のときに結婚しました。

この時も引き続き新幹線通勤の日々で、忙しかったように思います。
COBOL歴も2年ほどたちました。
私ぐらいの年齢でCOBOLやっているエンジニアは周りにいなかったので、どこに行っても「COBOLやってるんですか!?」「COBOLの案件やってよ!」と大人気でした(笑)・・・嬉しくなかったけど。
多分会社としては、そのままCOBOLの案件に売り込んで行けば案件取れたのかもしれませんが、このあとWebの案件にチャレンジさせてくれた当時の会社や上司には本当に感謝です。

今は旅行が好きでよく行くのですが、この時を振り返ると、あまり旅行も行ってなかったな、と思います。
新婚の方はぜひ2人のときにたくさん旅行に行くことをお勧めします!

結婚2年目の2009年に長女が誕生しました。
住んでいた賃貸マンションが3階建ての3階で、駐車場もマンションから少し離れていて、ベビーカーで荷物抱えての上り下りが大変なこともあり、思い切って家を書いました。

新規案件の喜びと炎上案件の挫折

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COBOLの案件も終わり、その後はPHPでのWebの案件が多くなりました。

個人で趣味でやってたWebサービスの方も続けてて、PHP、JavaScriptなど勉強していたことが、この時活かされました。
副業を禁止している企業も多くありますが、個人の成長に繋がる副業は是非推奨すべきです。

ちなみにこの時いた会社も副業禁止だったと思いますが、この時のWebサービスの広告収入は月3,000円程度だったと思います。

「たった3,000円かよ!」と言う人もいると思いますが、自分で何かを立ち上げた経験がある人なら、この喜びをわかってくれるかな笑

エンジニアとして多少の経験も積み、この頃からプロジェクトのリーダーとして、お客様と直接接することも多くなりました。

長女も生まれた2009年には、東京でガラケー公式コンテンツの開発案件のリーダーをやることになりました。

会社としても新しいお客様の案件で、当時はガラケー公式コンテンツなど九州ではなかなか無い案件だったので、とてもやる気に満ちていました。
正直見積りの工数では絶対終わらないな・・という案件だったのですが、当時の私は、せっかくもらったチャンスだし、「できません」ということは恥だと思っていましたので、とにかくやる!!という思いでした。

ただ、生まれてまだ2歳の長女と、いやいや期で一番大変な時期の子どもを妻に任せて東京で単身赴任での半年間はとても辛い日々でした。

うちの会社は東京の某IT企業I社を通して、某広告マネジメント企業S社のガラケー公式コンテンツの開発を受注していました。

私は東京のI社にプロジェクトのリーダーとして常駐し、福岡に開発メンバーがいて、I社側には案件のプロデューサーとデザイナがいました。
お客様とは良い関係で、当時うちのメンバーにはガラケー公式コンテンツのノウハウがなかったので、I社のエンジニアの皆さんにもとても助けられました。

なんとしてもこの難しいプロジェクトを成功させたいという思いと、どうせ土日も一人だし、という思いから、土日も仕事をしていました。

一応フォローですが、これは会社からの支持ではなく、「成功したい自分」に対して、自分で会社には言わずやっていたことです。

最初の頃はそんなこんなで進めていきましたが、納期が近付くにつれ、だんだんとプロジェクトもやばい状態になってきました。
メンバーにも残業してもらいましたが、正直自分は東京にいて、I社のプロデューサーとの仕様の調整などに追われて、全然見えていませんでした。

そしてついに納期一週間前になって、お客様であるS社の担当者から「こんな画面をお願いした覚えはない!」と100個以上の修正依頼リストが送られてきました。

この時はもうとにかくこれを対応して終わらせるしかない、という空気で、納期までの一週間寝ずに作業しました。

当時の私は、S社やI社の担当者からも無茶を言われ、福岡の開発メンバーも全然動いてくれないし、上司もフォローしてくれない!という思いで、完全に自分は被害者だという思いでした。
とんでもないプロジェクトをアサインしやがって・・・と。

結局結局納期には間に合わず、体力的にも精神的にもかなり限界状態でした。

この時の自分に言いたいのは、
・「できません」を言うのも大事だぞ。
・理想のエンジニア像、自分像なんて捨てろ!
・お客様のためを思うなら、お客様の言いなりになるな!
・自分にとって大事なものを、ちゃんと大事にしろ!
・でも、この失敗が、後々大きな財産になるぞ!
です。

人生の中で、時々何もかもが上手くいかない時があります。
上手くいかなくなった時に、手のひらを返して、責任を押し付けたり、攻撃してくる人もいます。
でも、そんなどん底の時に助けてくれる人がいます。

この時一番助けてくれたI社のエンジニアの方は今でも恩人だと思っていて、つい先日も東京でランチに行きました。
今でも、この先も感謝の気持ちは一生忘れません。

そんな人をずっと大事にしていきたいです。

ボロボロの日々で生き方を見直したひとり旅

システムはうまくできて当たり前。バグがあったら叱られて、感謝されることもない仕事。
もうエンジニアなんて辞めよう。
こんなことを続けていたら身が持たないし、家族とも会えず、何のための人生なのか?・・・という思いの日々でした。

それまでは、ニュースで過労で倒れたり自殺する人のニュースを見ても、「じゃあ逃げればいいじゃん。」と思っていたけど、この時初めて「逃げるのも辛いんだ。逃げた後のことを考えるだけでも面倒だし、全てリセットしたい。」ということを思いました。

その時東京に訪問に来てくれた上司にジョナサンで、「この案件が落ち着いたら辞めようと思います。」ということを伝えたのを覚えています。
この時は「今の会社でもっとやれることもあるんじゃないか?」ということを上司から言われ、いったんその場では思いとどまりました。
その時ジョナサンで、北斗晶さんを見かけてことも覚えています。

その後先輩にもサポートに来てもらい、肉体的には楽になりましたが、精神的にはずっと落ち込んでいました。

土日一人でマンスリーマンションにいるのも辛かったので、ひとりで旅行に行こうと、思いました。

滝が好きだったので、鈍行電車で群馬の吹割の滝、日光の華厳の滝や東照宮など安い温泉旅館に泊まってひとり旅をしました。

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この時人生を変えた1つの出来事がありました。
それは本との出会いです。
鈍行電車で2時間〜3時間掛かるし、旅館でも暇なので、本でも買おうと駅の本屋に立ち寄りました。

そこで目に留まったのが当時タリーズジャパン創業者の松田公太さんの「仕事は5年でやめなさい」という本です。

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当時ちょうど社会人になって5年ちょっとがたったころだったし、辞めようと思っていた自分にピッタリだと思いました。
この本で印象に残ったのが、人生の残り時間という考えでした。

実は私の父は、私が小学6年の時に42歳で亡くなっています。
その時自分が29歳でした。42歳までと考えると残り13年。
13年の間に自分は何を成し遂げられるのか?家族に何を与えられるのか?を考えました。

そしてもう1冊出会った本が、「7つの習慣」という本です。

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この本に

問題は自分の外にあると考えるならば、その考えこそが問題である

という言葉がありました。この言葉に衝撃を受けました。

当時の私は、問題は全て無理な仕事を取ってきた上司のせい、ちゃんとやってくれない部下のせい、無茶な要望を言うお客さんのせい、と思っていました。

いかに自分が自分の人生を生きていないか?ということを考えさせられました。
1度きりの自分の人生をいかに無駄に生きているか?を見つめ直しました。

その日から「すべての人が自分の人生を主体的に生きる社会の実現」という理念を自分の人生に掲げました。

父ちゃん会社やめるぞ!

その後もその会社で自分なりにできることをやりました。
そして、自分の人生の中で、大事なものは何かを考えました。

2人目の子どももできて、長女の時は一緒にいてやれなかったので、子供ともっと一緒にいたい、と思いました。

夜は家族で一緒にご飯を食べたい。

旅行にももっと行って、色々な経験をさせてあげたい。

大好きなITでもっとたくさんの人に喜びや楽しみをもたらしたい!

自分の働く時間は1日8時間、1ヶ月20日間で160時間。今より給料を増やすためには働く時間を増やすか?でもそしたら家族との時間がなくなる。
そう考えると、自分の時間をお金に変える働き方に限界を感じるようになりました。

・・・そんな2011年の春、東日本大震災が日本を襲いました。

自分は直接被害を受けることはありませんでしたが、連日テレビから流れる被災地の状況に、心を痛めました。

それと同時に、また、「今生かされている自分は、しっかりと今を生きているのか?」ということを改めて考えました。

ずっと抱えていた「独立」という思いを抑えることができなくなりつつありました。

そして、2011年の年末についに会社を辞めました。

一部の人からは「家族と一緒にいたいから、辞めるなんて甘い!」とか「そんな優しい世の中じゃないよ。」と言われました。

が、上司も同僚も独立を応援してくれました。

家族にも反対されるかな、と思いましたが、妻からは「もう決めてることやろ?じゃあ、辞めていいやん。その代わり、きちんと家族が生活できるようにお願いね!」と言ってもらいました。

子どももまだ小さく、家のローンも残っていて、転職ならまだしも、独立だなんて、妻の両親や自分の親からも何と言われるか・・・と思っていましたが、快く独立を認めてくれました。

みんな私を信じてくれました。

次の仕事も決まっておらず、明日の収入もわからない状況でしたが、これから始まる新しい人生にワクワクでいっぱいでした。

エンジニア人生を振り返る - フリーランスエンジニアとベンチャー起業編」「エンジニア人生を振り返る - diffeasyジョイン編」につづく・・・

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