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わたしのお守りアクセサリー

一年に一度だけ身につけるネックレスがある。年に一度の決まった機会と言うと、憶測でもある程度までは選択肢を絞ることができるだろうが、おそらくその中に含まれる、誕生日だ。
(2022.1.11)

何から書けばいいんだろう。冒頭の2文を書いたきり、4か月も止まっていた。あまり下書きを増やさないほうなので、わたしには珍しいことだ。

今ここでわたしが書こうとしている内容は、いろいろな前提条件を書き並べておかない限り、わたしの思う意味で読み手に伝わる可能性が、きわめて低い。だから書けずにいたのだと思うけれど、やっぱり書きたいから書く。
書き進められないからと言って下書きを消すわけでもなく、ずっと残してあったのだから。

ネックレスの送り主は、元恋人。
今でこそわたしはアセクシャルを自認していて(たぶんだけど)、「わたしは恋愛をすることはないんだろうな~」って冷めた目で自分のことを見ているけれど、当時はまだ、そういう性質の人がいるという事象すら知らず、ましてそれが自分に当てはまるだなんて1ミリたりとも思わず、一緒にいて楽しい男性と「付き合おう」のひと言を皮切りに恋愛関係になれたものだと、思い込んでいた。

そんな恋人と過ごす、初めての誕生日のこと。お互いの都合で、実際には誕生日をいくらか過ぎたあとの日程だったけれど、実質あれは誕生日デートだった。
にも関わらず、わたしたちは特別なことをせず、いつものように食事を楽しんだあと、外の空気が心地よかったから外で話していた。

そこで手渡されたのが、誰でも知っているであろうアクセサリーブランドの紙袋。
食事の席でなら、店内の照明で見やすいし、向かい合っていたからお互いの顔もよく見えたのに、なぜ日の暮れかけた薄暗い外で、しかも横並びで座っているときに…。不思議でならなかったけど、きっと彼も、タイミングを見計らっていたんだろうな。たくさん迷ったんだろうな。

今だからこんなに落ち着いて推測を書けるものの、当時のわたしは大変に困惑したのだった。
そもそも、贈り物をするという文化が、わたしには根づいていない。家族間でも同性の友人とでも、祝いはするが、大したことをしないのだ。大したこととは、レストランを予約するとか、高額なプレゼントを用意するとかだ。している人にとっては当たり前で、それこそがお祝いであり、「大したこと」ではないのかもしれない。
でも、わたしにとってそれは、とても大げさなことで、自分には無縁のものだと思っていた。その日の食事が特別なものでなかったことを、心から安堵していたのだ。

そんなタイミングでの、プレゼントの登場だった。
ブランドものに興味がない、化粧っ気もない(当時)、そんな女にお高いアクセサリーを贈って、いったい彼はどうするつもりなのだと。プレゼントを渡そうと考えてくれたこと自体は嬉しいのに、残念ながらその中身にまったく共感できなかった。

そもそもわたしたちは、普段の食事の会計でも、自分が食べた分を自分で払うような習慣になっていたし、小さな小さなプレゼントでさえ、する機会がない。極端な話、大学の授業終わりに待ち合わせて「お疲れ~!」とか言ってチロルチョコを渡す、みたいな。そういうことさえなかった。
だからきっと、アクセサリーのプレゼントは、普段とのギャップが大きすぎたんだ。

何も贈った・贈られたことがなかったわたしに、諭吉を超えるネックレスは高嶺の花だった。もし「アクセサリー」と書くことで軽々しく聞こえてしまうなら、わたしはそれを「ジュエリー」と呼ばねばならない。

戸惑うあまり、もしかしたらありがとうよりも先に「なんで?」って言ってしまったかもしれない。もうディティールは覚えていないけれど、それほどに衝撃的なできごとだった。

当時のエピソードは、このあたりにしておこう。まだまだ書けることはあるけれど、大事なのはそこじゃない。

一般的な感覚として、「別れた恋人からの贈り物を残しておくって、どういう神経してるの?」という意見が出るかと思う。
一切合切、捨ててしまうという話もよく聞くし、ものによっては売りに出す人もいるだろう。でもわたしは、そのどちらもできなかった。

その理由のひとつとして、彼と別れた段階で、既に、わたしは自分が次の恋愛をすることがないだろうと察していたことがある。アセクシャルという概念に出合うのはまだ先のことだけれど、ただ「次の恋愛をすることがないだろう」というだけでなく、「今回のお付き合いも恋愛と呼べるものではなかったのだろうな」とまで、思っていたのだ。

贈り物文化へのなじめなさも相まって、あのネックレスのようなものはもう一生、手にすることがない、と感じた。自分で買うことなどありえないし、わたしにそれを買い与えるような人と出会うこともないはずだ。ここで「だから」という接続詞を持ち出すと、「高級品に対して手放すのを惜しんでいるケチな人」みたいに思われてしまいそうで、それは事実と異なるので抵抗があるのだけど、でも、
だからわたしはそのネックレスを今でも大切にしている。

彼のことは人間として大切に思っていて、その彼からもらったネックレスもまた、わたしにとって大切な存在なのだ。常に身につけるのは重たい女っぽいので、誕生日にだけ、思い出してつけている。そっちの方が重たいよ、という考え方もあるのだろうな…。なお、別れ話を切り出したのはわたしであり、別れたことに対する未練はありません。
(※わたしは別れたくなかったのに…とか言ってアクセサリーをずっと握りしめているわけではない、と言いたいだけ)

このnoteを収録したマガジン「女性らしくあることと、わたしらしくあること」には、アセクシャルだと気づくまでの経緯や、気づいてからの自分の在り方についてのお話も登場しています。更新頻度は低いけれど、興味のあるかたは覗いてみてください。
それでは、また。

七志野さんかく△

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