目指す姿
「あの人のように、なりたい」
子どもだけでなく、大人であっても
誰かに憧れるということは往々にしてあるだろう。
その対象に、視線の先に立ってみたいと考えることはないだろうか。
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私がこれまで、将来を考えるとき、なりたい姿を想像するとき
「この人のようになりたい」
そう思う人物がいた。あるいはその人物に、自分がなることを想像した。
これまでの推移
私が過去に描いた姿・夢、あるいは現在も描く夢は、大きく分けて3つだ。
プロ野球選手
中学校国語教師
言語聴覚士
このうち1つ目のプロ野球選手というのは非常に単純なもので、小学生の頃から野球をやっていたために、挙がったものだ。
特別大きく触れるつもりはない。
ちなみに好きな選手は内川聖一選手
彼のバッティングスタイルにとても憧れていた。初めてテレビでプロ野球を見たときに、ソフトバンク移籍1年目の彼がヒーローインタビューを受けていたのを、今でもおぼろげながら覚えている。
そんな彼へのあこがれから、高校のソフトボール部に転部したとき、選んだ背番号は24だ。当時の内川選手がつけていた背番号である。
ついでに言えば、後継の長谷川選手や栗原選手も好きな選手だ。今となっては出身地などとは全く関係ないが、ソフトバンクファンである。
さて、2つ目の国語教師、3つ目の言語聴覚士についてはしっかり触れていこうか。
国語の先生になりたい
先生になりたいと思ったことは何度もあった。その理由もいっぱいある。
しかし明確に ”中学の” と絞り ”国語” と教科を絞ったのは中学生の時だった。
もちろん決して褒められた面とは言えない面も持ち合わせていたが、私の中で強くその人間像に憧れた先生がいた。
”あの人のような人間になりたい”
おそらく初めてそう思った。
その人間像を少し、紹介したい。
惹かれた要素の一つは、あの人の芯・軸が目に見えてわかるほど一貫した言動、姿勢であった。
たとえば国語の授業では、1回の授業でひとつ、テーマを扱えれば十分。一度に何場面も取り上げようとして授業を無理に進めるつもりはない。
という方針を確固として持っていた。
私の学年では学級委員を担当しており、1年後期、2年前期では私も学級委員に属したのだがそこでも、学級委員としてあるべき姿は如何なるものか、定期的に行われる学年集会では、他の生徒たちに伝えるべきことが伝わるか、内容によっては、楽しめるものなのかなど、(この辺は細かい所は覚えていないが)ブレることなく考え続けていたように記憶している。
もちろん思い出補正もあるだろうし、実際には学年全体を対象にする学級委員の場とクラス対抗の場で言っていることが違うなどのことはあったのかもしれないが、逆にそれがあったとしても、次に述べるポイントにつながっている。
2つ目の惹かれた要素は、目の前の生徒を大切に想い、その生徒に熱をもって接することができるという点だ。
先ほどあの人には、褒められた面とは言えない面も持ち合わせているということを述べた。
この、熱が入るがゆえに、入りすぎるがゆえに最初の1年間ほど、時々見られたのが体罰だ。
もちろんそれ自体は許されることでは無い。現場を目の当たりにした人間には恐怖心も植え付けかねない。
私だって、体罰を正当化しようというわけではない。その点についてはあの人の悪い所だと思っているし、一度は見られなくなったが今はどうなっているかわからない。そんなことは別にどうだっていい。
とにかく ”目の前の人間に対して全力で接する” これは非常に大事なことだと私は思う。そのきっかけになったのがあの人の姿勢だということができるだろう。
国語の授業だけではない、授業を受け持っていない他クラスの生徒からの多様すぎるほどの質問に答える姿や、学級委員と各クラスの状況について話す姿、SOSを出してくる生徒への対応など、目の前に現れた生徒を切り捨てることなく、大切に扱っているように見えたその姿に私は ”かっこよさ” を感じた。
私自身も、どうすればクラスの人間から信頼を得られるのか、もっと良いクラスにしていけるかなど、当時は学級委員として何度も話をした。
2年生の時、直前まで体育祭練習をした後の学級委員の集まりを終えた後、熱中症で動けなくなってしまったことがあった。
その時あの人は、顧問として持っている部活に顔を出すよりも私が病院へ行くタクシーに乗るまで見届けることを優先してくれた。緊急度が高い案件であったからだとは思うが、本当は部活に顔を出したかったはずだ。
その時聞こえてきた、あの人が母親に言っていたことの中に、こんなものがあった。
自分の気持ちを抑えて、目の前の生徒のフォローまでする。
心の余裕を感じられる、大人な対応とはこの事なのではないかと、中学生ながらに感じた出来事だった。
そしてまた、これは一人一人の姿を見ていなければ出てこなかった言葉だったと思う。
他にも憧れる要素はあったが、とりあえず私の軸にも通じるところが多いであろう2点をピックアップしてみた。少しはイメージが湧いただろうか。
学校の先生になることが夢になった当初、”中学” ”国語” と絞ったことの大きな要因はここにある。
しかし他にも、関連する要因はあった。
吃音の明確な自覚、意識
これだ。
実は、私が特に吃音のことを考え、悩んだのは中学生の時である。
私が中学校の先生になりたいと思ったのには、吃音を持つ子どもが、中学生という非常に多感な時期には特に、悩み、考え、苦しむのではないかと考えたからというのも、関連要因としては大きかった。
吃音を持つ子でも、安心して暮らせる学級作りがしたい、吃音を持つ子の声を直接聞いて、支援の糸口を見つけたい。
そんな思いがあったのもまた、中学校の先生になりたいと思った理由だ。
”国語” という教科にしたのは比較的単純な理由だ。
ひとつは憧れたあの人の担当教科だったこと。
ひとつは私の好きな教科だったこと。
そして、もうひとつは、国語が最も ”ことば” の問題を考える上で相談先として想定されやすいだろうと考えたことによる。
自分のクラスの吃音の子を見つけるのは簡単な事だろう。
しかし、吃音を持つ子が自分のクラスにしかいないというわけではない。
吃音は幼児期には10-20人に1人いると言われ、その約7-8割が4年程すれば自然回復すると言われているが、20人に1人で、その8割が自然回復するとしても、100人に1人は吃音が残存することになる。
(自然回復しない子どもを2割として、0.05×0.2=0.01 計算が間違っていたら申し訳ない)
つまり、小規模の学校でなければ、学年に2-3人いてもおかしくないくらいの割合だ。
3学年で考えれば、5-10人弱ということになる。
そんなとき、私の持つクラス以外で吃音を持つ子が苦しんでいたら、私はやはり手を差し伸べたい。そのとき、相談先として自分を選んでくれる可能性を少しでも高めたい。
そんな意図も、実は内包されていた。
後に出会った、私のクラスの国語を担当してくださった先生方も皆、尊敬の対象となる方々であった。これも ”国語” という教科を選択する強い後押しになったように思う。
特に高校で3年間担当してくださった先生は間違いなく私の人生に大きく影響している。
”恩師” は誰かと問われれば、まず挙がるのは憧れのあの人ではなく、この先生の名だと思う。
恩師のことについてもいつか書くだろう。ぜひ楽しみにお待ちいただきたい。
今の私が目指す姿
さて、3つ目に挙げた夢。
現在最優先で追いかけているのが ”言語聴覚士” だ。
特別誰かに憧れたわけではない。
それこそ、言語聴覚士なんて、自分や家族などが関わらなければ知ることもないだろう。
高校の友人でも、知っているという人はいなかった。
”療育” という言葉も知らない人ばかりだ。私自身も大学に入って初めて聞いたが。
私がこの仕事を知ったのは高校3年生の時、コロナ禍で人と話す機会がなく、「最近症状出てないな」と感じていた吃音が「再び出て来るのではないか」と怖くなり、いろいろ調べていた時に見つけた仕事だった。
この仕事を知り、私が描いた姿に私自らが憧れるようになり、一つの選択肢として、この道も良いかもしれないと感じるようになった。
おそらく進学先を他の大学に決定していたとしても、将来的には言語聴覚士の専門学校に行ってその資格を取ろうとしたのではないかと思う。
正直吃音者の世界がどんなものなのか、外の世界を知らずに生きてきたためにその実態は全くと言っていいほどわかっていないが、私が当時すぐに思い浮かべた、描いた像であり、今もぼんやりとではあるが、描いている姿がある。
これをお伝えする前に、一つ注意書きを残しておきたいと思う。
これから私が述べることについて、気になると思っていただいたり、興味を持っていただいたり、その考えを部分的にでも利用したいと思ってくれたりする人が出てくる可能性があると私は思っている。願望でもあるが。
せっかく私が大切にしている考えであるから、是非その旨を私に伝えてほしい。一言コメントを残してくれるだけでもかまわない。
現在公開しているSNSがないため、私のプロフィールに飛んで「クリエイターへの問い合わせ」なるものを利用してもらっても良いと思う。仕組みはよくわからないが。
今後直接関わるチャンスが作れるよう、現在準備中であるため、こちらについては今しばらくお待ちいただきたい。
少しでも、部分的にでも、賛同いただけるならば、私は是非それを知りたい。
それだけ、公開することに私の中では勇気のいる、大切なことをこれから伝えるのだということを是非、わかっていただきたい。
では、私が描く将来の姿、何をしたいのかをお伝えしよう。
何も知らない吃音を持つ子たちと、言語聴覚士をつなげたい
言語聴覚士という仕事があり、吃音を治すことはできずとも、症状の頻度を減らす、喋り方を学ぶ、環境調整をするなどの支援をしていると知った私がまず思ったのがこれだ。
もうすでに、そういった組織や仕組み、取り組みがあるかもしれない。まずはそこを知らなければいけないが、一旦何もないというていで話を進めたいと思う。高校3年の時に思いついたことをほぼそのまま書くため、多少飛躍した話もあるだろうが、ご容赦いただきたい。
この目標を実現するために、必要だと思ったことは以下の通りだ。
保育士、幼稚園の先生、小・中教員と言語聴覚士のつながり
小・中学校での吃音に関する講演
SNSでの吃音、言語聴覚士(特に小児)の仕事に関する発信
保育園、幼稚園、学校と言語聴覚士在籍機関とのつながり
すぐに挙がったのはこんなところだったろうか。
小学校などでは、言葉の教室なるものが設置されている学校も多いだろう。しかし、何も知らない吃音を持つ子は、その話し方がおかしいのではなく、その子にとっては普通の、他の子とは違うだけの個性というような捉え方をしている場合も少なくないように思う。
私自身も、困りつつも、自分は健康だし、障害者ではないだろうという考え方だった。相談したところで、個性として流されるだろうと決めつけていたようにも記憶している。
決して諦めていたのではなく ”そういうものだ” と思っていた。
義務教育、高校と、子どもが多くの時間を過ごすのは学校だ。それは間違いない。家庭内でのみ吃音がみられるケースであれば、親が家庭の方針を基に判断するだろう。
しかし、吃音が学校でみられる場合、気づけるのは基本的に友達や先生たちということになる。
その人たちに何も知識がなければ、当然気づかれることはない。
そこで対策として挙げられたのが上記の内容である。
私は現在、言語聴覚士を目指しているが、頑なに成人施設での就職は避けたいと、担当の先生とは話をしている。
様々な学びを得る中で、吃音以外にも話し言葉の障害や発達障害などが存在することを知り、それらへの支援にも魅力を感じているため、吃音に絞らず小児言語聴覚士として働きたいと今は思っている。
ゆえに小児系で就職することがまずは最優先という方針で考えている。
しかしその先で、やはり私がしたいと思うことが、
吃音を持つ子と言語聴覚士をつなげる
ということなのだ。
私は小児の言語聴覚士として、臨床経験を積み、現状の取り組みや吃音者の世界を知ったうえで、それに応じた、ニーズに合う取り組みを、仕事としたいと考えている。
それが病院や施設で働く言語聴覚士の仕事の範疇を超えるのならば、起業をすることだっていとわない。
--簡単に起業なんて口にするな
よく言われることだと思う。私が直接言われたことはまだないが、そう思う人は多くいるだろうし、まわりにそう言われる人もいる。
しかし、私はやるなら本気で起業するつもりだ。
既に独学ではあるものの、起業について学び始めている。
入学試験の面接で教授方に大々的に宣言しておきながら、大学生前半の2年間ほとんど学んでこなかったのは、私の中では非常によろしくない状況だった。
ようやく学び始めたという段階だからこそ、まだ詳しいことは何も伝えられない。どうかその点についてはご容赦いただきたい。
私が目指す先に何があるのかはわからない。
小さくまとまってしまうのかもしれない。
でも、まずはやってみたい。
私が目指す姿
とりあえずは、
「吃音を持つ子が言語聴覚士とつながれること」
これが当たり前になる社会にする
これを成し遂げる人間になることを当面の目標、目指す姿とみればよいかもしれない。
そのために必要なことは山ほどあるだろう。
1つ1つ、確実に遂行していきたい。
将来的に何を目指すのか、また私の世界が広がったころにお話しできたらなと思う。
「私」を発信するために始めたnoteでありながら、私のことを深く知るきっかけをお与えできていなかったように思う。
今回の投稿が少しでも、貴方が私のことを知るきっかけになっていれば、あるいはその手助けになっていれば、幸いである。
初投稿で私は
と述べた。この投稿だ。
少しはこう述べた私の ”根幹にあるもの” が見えたのではないだろうか。
私は貴方に、もっと私を知ってもらいたい。
私の言葉、姿から何かを感じ取ってもらえるよう、今後の文章にも力を入れていこうと思う。
次回の投稿も貴方に是非、読んでみてほしい。
もっともっと、貴方に伝えたい。
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