28. 胸糞悪い私たち

 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『パンズ・ラビリンス』が好きだと言うと、映画好きからは人格を疑われる。無念。別に「胸糞系」だから好き、というわけではない。現に、『ミスト』はいまいち好みじゃない。
 人が苦しむ様を安全な場所から眺めるためにフィクションは存在する、と言うと今度こそ人倫を疑われるだろう。じゃああなた方はなぜいちいち苦しいノンフィクションを見ようとする?知る必要があると言うのなら、知った後で何をしている?いちいち襟を正して見ているのか?
 私も時たまノンフィクションを見る。シビアなものは見ていると苦しくなる。できるだけ当事者たちの思いを想像しながら見る。ノンフィクションだと分かっていると、後々ずっと苦い思いが尾を引く。
 凄惨な物語を楽しむことと、ノンフィクションに胸を痛めることとは全く矛盾しない。別に似た感情を以て「鑑賞」したって、人倫にもとるわけではない。
 言い訳はこの辺にしておく。

 苦しいフィクションにはしばしば「解」が付けてあり、ノンフィクションより幾分見やすい。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のビョークは障害や貧困、冤罪に対し音楽と踊りを解とした。『パンズ・ラビリンス』のオフェリアは戦禍と孤独、肉親の死に対しおとぎ話を解とした。『ミスト』には大枠となる解がない。ほぼ運ゲーである。
 馬鹿でかい苦痛、苦難をどうやり過ごすか。やり過ごせない時はどう迎え入れるのか。最後まで諦めない闘病モノの熱血お涙頂戴系とは少し違う。しかしマッチ売りの少女ほど儚くもない。死にものぐるいでもがいてかなわなかった現実に、彼らはせめて美しい解釈をつけた。邦画で言うと北野武の『HANA-BI』なんかもそうだろう。幻想に逃げ込むことなく戦い、最後は自分の手でけりをつける。絞首台へと向かう靴音は踊るリズム、ゲリラの潜む森には秘密の洞穴、死にゆく妻と愉快な強盗旅行。息もできないような現実と、彼らの見せる(実際に見ている)一時の幸せとの繰り返す落差が、「胸糞映画」と呼ばれる所以だろう。情緒のジェットコースターである。
 苦しみ抜いても自分の「解釈」を捨てずにいられる人の方が当然珍しい。希望というほど生やさしいものではない。絶対に消されなかった、生きる意志である。蝋燭の火が消える前に一瞬強く閃くのが見たい。『ゴールデンカムイ』の辺見くんほど変態ではないが、苦しい物語を好きになってしまう最たる理由である。
 物語には一切の妥協がなく、主人公たちだけがただ生きるために優しい嘘を織りあげる。どんどん綻んでいく織り目から残酷さを覗き見る。血で編まれた幻想の中に必ず入り混じる優しさや愛を見るたび、人の強さを思い知る。芯が強かったり、優しかったりするからこそ「胸糞悪い」のである。
 残酷さもフィクションの持つ大きな力である。

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