この世界を、この世界の誰かを救いたい衝動

この世界は狂っている、、、

あの国では内紛が起こり

子ども達の心が大変なことになっている!

助けに行ってあげたい、、、

ヒーローになるぞ!

助けに行かなくては!!!!!

あの国の不憫な子ども達を救うのだ!!!!!

そう考えたことは、ありませんか?

この世界において

世の中の人達がとても狂っているように見える時

自分自身の自我の思考体系を選んでいる今現在の内的状況を外側に投影をして見ている

ということを受け入れていくことが

真理に到達したいのならば

必要となりますが、

ここからは、まさに、原因のレベルでどうにかするのではなく、結果であるこの世界をどうにかしよう!問題があるぞ!解決しよう!という自我の罠について、人生の目的を変えることと、目的を変える前の、自我の救け方について

私のとても個人的な体験のシェアとなります。

何かシンクロするものがあるかもしれない。どう捉えたらいいの?など、興味のある方は是非、読み進めてみてください。

昔の私は投影やら、真理に到達やら

そんな事には全く興味がなく

まさか自分が自我の思考体系と自分を同一化していると思い込んで生きているとも、つゆ知らず(笑)

よし!青年海外協力隊になって

イスラエルへ行くんだ!

あの不憫な子ども達を助けに行こう!

優しく抱っこしてあげたり

日本語を教えてあげることならわたしにも出来る!

そんな風に意気込んだ

大学2回生の終わりの時を過ごしていました。

(答えからいうと、内的に内紛が起こり(ギャングに弱きものが攻撃されていて、葛藤している)不憫で可哀想な子どもだったのは私自身で、助けが必要だったのも私自身)

高校最後の進路決めの時に決めた夢は

「イギリスでバリキャリとなってファッション系の仕事をする!のが夢!

自分のブランドを立ち上げる!」

だった私は

その頃、祖母と二人暮らしとなっていた自宅の居心地がすこぶる悪く

どこも本当の家ではないような

お客様扱い、腫れ物に触るような扱いをされている感覚に苛まれながら

新しい世界をみたい!

場所を変えれば問題が無くなるはず!

できれば海外の大学へ進学したい!

無理でも、東京か大阪の大学に通いたい!と

考えていました。

(幻想Aから幻想Bへ、そして幻想Cへ、、、という事は悪いことではないのですが、どれも幻想ですから、場所や相手を何度変えたとしても、自分自身が投影相手や物、投影した出来事を赦し、真に癒されていなければ、自分自身の内側の暗闇を再度投影して、同じようなことを、場所を変えて、相手を変えて、職場や家庭やコミュニティなどでの人間関係を通して何度も何度も繰り返していきます)

お笑い大好き!面白い人大好き!だった私は

関西弁の響きに憧れて

笑いについても

本場の地?!でなら実践から学べるはず!と

大阪のとある大学を第一志望としていました。

なんともお気楽で適当な選び方をしたものですが

吉本新喜劇には、くるよくるよ!ほら、きたー!!!という笑いのお決まりの王道パターンがある事。

日常生活の中でも、会話に落ちをつける事が大阪スタンダードである事。

話にリズムと間をつける事。

どつきによる笑いは、信頼関係と親密さの元に成り立っている事。

などを学びました(笑)

[関西の方、間違っていたらご容赦ください]

コンビニで購入した大学案内に掲載されていた

とある大阪の大学の

おどける先輩2人の漫才師のような

写真イメージを頼りに

そこそこの英語読解力と

あまり人目を気にしない習慣を武器に

携えて

ぬるくてゆるいムードの

生徒の半分は海外の方々である大阪のとある大学へ

3歳から離れて暮らしている父からの

サポートもあり入学させてもらえた私ですが

その学校の売りのひとつは、

[ハワイ校への3年次編入コースがあること!]

私は迷いなくそのコースでの入学を

希望しました。

ハワイでそのまま就職するのもいいな!などと漠然と思っていました。

英語と国語が出来ればOKな入試で

そこそこの偏差値の大学だったので

私にとっては楽勝で、

入学してみたらそこそこ入試の時の成績の良かった生徒を集めたクラスだったようで

「三浪してやっと入れた!」と喜んでいる人もいれば

「第一志望の優秀な大学に落ちたから来た、、、

仮面浪人をして第一志望の大学を受け直しするんだ!」

という人がいたり、

「第一志望の大学にストレート合格!」

などなど、

その場にいても、ここの大学を受験した目的や、入学した目的が違うことはもちろん

この大学に入学してこのクラスで一同に会しているという事実に対する捉え方、価値判断は人それぞれであること

知覚していることは、悲しみ、苦痛(pain)であれ、達成、獲得したことへの快楽(pleasure)であれ、それぞれ違っていた、自我は多様性に満ちている、というのを体験しました。

その当時の私の周りには、価値判断がない、悟った方は1人もいませんでした。(全て私自身の投影か、聖霊の反映の人達が集まっている。どんぐりの背比べ程度の差しかない)

(原因、意図と目的、結果についての解説として

同じ時空に居るように見える相手でも

真理における利害の一致は無意識ではあれ、必ず同じなので、あるが

その時に表面上は何を体験しているのか?は、自身が自我的てあれば、相手も自我的であること(とても利己的でいて、攻撃的な目的)は同じとはいえ、形態は同じではない事と、この世界における一喜一憂の知覚は同じとは限らないということ。)

ただ、クラスメイトのみんなの「使える英語を習得するぞ!」という本気度と気概に圧倒されたのは、確かでした。(あの必死さ、本気度と気概も、私自身だったのかー!です)

日本に居ながらにして海外に居るような授業が受けれる環境が用意されていましたし、留学生や帰国子女だらけでした。

そんな中で

地方の優秀な高校を卒業している

精神病を患っている女の子と

出席番号で前後ろになったのをきっかけに

[可哀想な人]を放っておけなかった

また、実は精神病にとても興味を持っていた私は

気づけばいつも彼女とつるんでいて

彼女を観察するのが興味深く

今思えばですが、一緒にいると、たくさん何かをしてあげられる気にもなれたので、

[私がいい人になれたような優越感]もあったのでしょう。

親友になりました。

賢く、おしゃれで、なんでもためしてみる、

いつも「私のことを可愛いと言って!」と頼んでくる(笑)よく喋る、とても変わった女の子でした。(あれも、私だったのか(笑))

兄と弟がいる彼女は、男女の垣根のない子で

中高女子校だった私の為にいてくれてる?ような

男の友達との付き合い方マニュアル(こんな時どう言う?どうする?編)

=生きたバイブル(笑)そのものでした。

今思えば

あの時だって

目の前の人を救える私でありたかったけれど

救い方が間違っていたことも多々あり、

自分の考えで、自我的な救い方をしていたんだな、、、自己満足だったな、と、今となってはとても反省をしていますが、

体当たりで救いに行くぞ!絶対!治る!というプロセスは、間違っていなかった!あの時の私の最善だったと思っています。

(彼女はその後、献身的なパートナーに恵まれて、ある心理学的なアプローチによって、その精神病を寛解させるに至っています)

私が2回生の時、

ハワイ校が閉校になることが決まりました。

3回生からハワイ校編入!の夢は無くなり

閉鎖したハワイ校から帰ってきた人達が

逆に本校へ編入してきましたが、

おおよそ日本の大学生活は息苦しくて

合わない!と言わんばかりに

ほとんどの人達がすぐに退学していきました。

私自身も、ハワイ校から帰国して編入してきたギャル達との会話を通して、ハワイ校に行かなくて良かったな、、、わたしには合わなかっただろうな、、、と思えたのと、

当時流行りのダブルスクールで服飾の専門学校にも通っていたのですが

遊びも勉強も専門学校も!というのは体力が追いついていないこともあり

遊びを我慢すれば良かったんじゃないの?

大学の単位も落としまくって5回生決定だし、

青年海外協力隊として海外の恵まれない子ども達を助けたい!と、人道支援に強い興味を持ち始めていた時だったので

よし!退学しよう!と、決めました。

その後、とても惹かれていた土地である

当時、内紛が勃発していた

イスラエルへ

人道的支援に行くことを

母に報告に行くと

初めてじゃないかな?というくらいの

母からの強い反対があり

その頃、母が病気で倒れたあとであったことも

重なって

青年海外協力隊になることは諦めて

家業である美容室を継ごうと思い

大学を中退して、地元に帰りました。

目の前の母の窮地を救えないでどうする?

母には子どもは私しかいないんだから、、、

という想いもありながら

母には同居しているパートナーとパートナーの息子さんがいたので

母への相反感情もあった当時の私は

正直、同居はしたくありませんでしたが、

結局は、母と母のパートナー、パートナーの息子さんと私という4人での生活が始まりました。

地元では、親戚や、母の経営している店の従業員の方々みんなが、私に母の事業を継ぐことを求めているんじゃないかな?(実際は、そんなことはなかったと、思います。母は、「さきちゃんは、ビジネス向きじゃなくて奥様向きだから、玉の輿に乗って!離婚してもいいから(母が離婚しているからね(笑))一度は結婚して、子どもを産むのよ。私はあなたが生まれてきてくれて、本当に良かったんだから!マリア様みたいな神聖な気持ちになったのよ。我が分身だと思うし、可愛くて可愛くて愛おしいんだから!本当に、子どもを産んで良かった!」と、本気で言っていましたから(笑))

期待を裏切ったらきっとバチが当たるよね、、、。(実際は、ほぼ、そういう期待はされていなかった(笑)と思います)

大事な時に居ない一人娘。ひどい子どもだ!と世間から、親戚から、思われたくない、、、。

という罪悪感があり、既に大学で学び続ける目的を失っていた私は、逃げもあって、大義名分ができた!とばかりに、地元に戻ったようなものでした。

夢にまでみたイギリスでのバリキャリ、ファッションピーポーな生活(笑)も、

イスラエルで子ども達に優しく日本語を教えている日本語教師生活も、

どちらもほど遠いものになりました。

今ならわかりますが

上手くいかなかった時

上手くいかなかったのは世間の目のせい!

母のせい!だということにできる!

という私の自我的な企みだったのだ!

チャレンジするのが怖かったんだ!と思います。

そして

気づくことさえ恐れなければ

心の内側から閉ざした扉の鍵を開ける覚悟と決断があれば

場所と相手と形態は違うけれど

私の体験したかった願いや望みは全て

いつだって最善のタイミングと方法で

叶っていっていることにも気づけて

自由自在に全てを持っている自分自身に気づいていきながら(思い出していっている)

過去への捉え方が変容して

母に、父に、基本的には私を自由にプラプラさせて、見守ってくれていて、本当に!ありがたかった!と、感謝でいっぱいの私であります。

ここからの出来事も、この世界の戦場を超えたところから見ることができるように、深刻にならないように、戦場と見ている自分や、深刻になっている自分を咎めずに、優しい眼差しで見守りながら、だけども、目を逸らさずに向き合い、直視していくことを、全ての知覚を受け入れて感じ尽くしていくことを、その後に見えてくるものを楽しみに、実践を続けていきます。

God is.

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