私は神の教師ではありません。

私は〇〇ではありません。

シリーズ第二弾は

「私はの教師ではありません、、、」

です。

かなり実践していて

の教師の特性(マニュアル編に書かれている10ある特性)を身に付けている方はいらっしゃると思いますが

私は、まだまだ、鼻垂れ小僧のレベルです。

(先日、70代のある素敵な女性に

40代なんて、まだまだ鼻垂れ小僧です!

と言われて

気に入った表現でしたので

早速使ってみました(笑))

幼子であり

なんならば 乳飲子、赤子かもしれません。

自虐ネタでもなんでもなく、、、

個人としての私は

放って置けば

いつも無意識のうちに

自動的に

自我と同一化しているし、

自我で考えています。

ただ、自分の思考を誤魔化さず

知覚に蓋をせず

抑圧せず

投影せず

という訓練中の『奇跡講座』学習者のうちの

1人です。

抑圧と投影が行われて

怖くなって深刻になって

あらあら、、、と

気づくことも多々ありますし

(いや、ほとんどがそうです)

赦しとは

実践レベルでは

聖人君子になる実践でもなんでもなく

自我の思考体系を選択している現在、

罪、罪悪感、恐れ、怒りという

感情があり

その間違った知覚を感じ尽くしながら

いかに自我との同一化をやめていき

自我の思考体系を選んだ時の具体的な思いや考えを咎めずに直視していくのか

それだけが、

赦しの実践をしたいという私に

唯一、求められていていることであり

唯一、できることだなぁと思います。

「聖霊の思考体系を選び直すこと」とは

訂正(collect)と

奇跡を起こすこと

どれをとっても

個人の私がしているのではないのだ、、、と

認識していくことになります。

他者に寄り添っていく時でさえ

相手を救済しているのは

個人の私では、、、なかったのだと

他者の中の自我の思考体系を直視することが出来る

実践が深まれば深まるほどに、

これからも

肉体としての個人の自分の無力さに

どんどんと気づいていくことが

出来るのでしょう。

神のところに還るまで

柔和なレッスンでの

私達一人ひとりの個人のストーリーは

これからも続いていくのです。

悟りの前、薪を割り水を汲む

&

悟りの後、薪を割り水を汲む


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