40にして惑わずーー自分のために生きてきた商社マンが離婚・無職・放浪の末に気づいた“人のために生きる”
「型にハマった人生が嫌で嫌で仕方なかったです」
41歳の商社マン竹内欧介(たけうち・おうすけ)さんはそんな思いを抱えながら生きてきた。社会の流れに反発することになっても、自分が納得できる答えを導き出そうともがいてきた。
親や学校への反発、就活からの逃避、離婚、無職、放浪。海外で働くか日本で生きるか悩み、導き出したのは何だったのか。
今回は竹内さんに人生を振り返ってもらいつつ、生きることについてどう考えているのかを聞いてみた。竹内さんの生き方とは。
親への反発、二度の停学「型にハマりたくなかった」
小さい時から型にハマりたくないと思って生きてきました。父親が自営業で、中古のコピー機を中国など海外に輸出する仕事をしていたことも関係しているかもしれません。自由に働いているように幼かった僕の目には映り、サラリーマンよりも父のような生き方がいいなと子ども心に思っていました。
ただ居心地がいいとは言えない家庭環境でした。だから、中高時代は夜中まで友達と遊び、2度停学になるなど結構グレていたんですよね。
学校にもあまり行きませんでした。朝起きて最寄り駅までは行くんですけど、当時付き合っていた彼女に母親のふりをしてもらって「今日は休ませます」という電話を学校にしてもらったこともありました。両親はそんな僕のことを半ば諦めていたと思います。
神戸有数の進学校「成績は200人中195番の落ちこぼれ」
僕が通っていたのは、中高一貫校で神戸でも有数の進学校でした。1学年200人くらいだったんですが、ずっと成績が195番くらいの落ちこぼれだったんです。
高校に進学しても相変わらず勉強はやりませんでした。しかし、ほぼ全生徒が大学に行く雰囲気だったので僕も流れで大学には行くことにしました。
就活の流れには乗りたくない オーストラリアで気付いた人を楽しませる面白さ
将来のことは何も考えていなかったです。気付いたら大学3年生になっていて、周囲はリクルートスーツを着込んで就活を始めていました。でも僕はその流れに乗るのは嫌で。就活から逃れようと思い、1年間休学してワーホリを利用してオーストラリアに行きました。
お金はなかったので、日本人向けのツアーガイドのアルバイトをしていました。大勢の観光客の前で話して、笑わせたり楽しませたりするのがすごく面白く感じて、次第にアナウンサーを目指そうと思うようになりました。アナウンサーは人を楽しませる仕事というイメージがあったので。
アナウンサーを目指すも全滅 楽しそうに働いている人ばかりの商社に就職
帰国後すぐにアナウンススクールに通い始めました。それでさらに1年間休学したんです。
でも、ダメでした。地方局とかも含めて30社は受けたんですが、やはりアナウンサーは狭き門で全滅。当時はかなり打ちのめされましたね。
テレビ局しか受けていなかったので、卒業間近なのに就職先は決まらなくて。日本は新卒主義なので、危機感と焦りだけが募りどうしようかと悩みました。結果的に大学院に進学して、もう1度アナウンサー以外で就活をすることを決断しました。
就活のためだけに大学院に進学したので、勉強意欲はなかったです。ただ卒業見込みの状態で就活を進め、何社か内定をいただけたんですよね。
自分の中では大学院を卒業できないのはほぼ分かっていたので、内定先の人事と交渉して「大卒で取ってほしい」と伝えたんです。幸いにも最終的に入社する会社から「それでも大丈夫」と返事をもらえたので御の字でした。
大学院は中退し、鉄鋼商社に26歳で就職しました。就活の時にOB訪問をしていい会社だなと思ったのと、いい意味で変な人が多かったのが入社の決め手。「楽しそうに仕事をしている人が多く、ここなら入ったら面白そうだ」と思えたんです。大企業のように会社の歯車にならなくても良さそうな雰囲気も魅力的に映りました。
離婚と退職のダブルパンチ「つらさと向き合う」
31歳の時に仕事で気持ちの浮き沈みが激しくなり、会社を辞めました。同じ会社で部署を変わるなど、今だったらもっとやりようがあったと思うんですけど。その時は本当に仕事が嫌になっちゃったんです。会社が大きくなるにつれてやりにくさや窮屈さを感じたことも一因です。
ほぼ同じタイミングで離婚も経験しました。仕事が忙しくて構ってやれず、ある日家に帰ったらいなくなっていました。実家に帰っていたんです。結婚生活はトータルで2年でした。
離婚と無職になったタイミングでつらさについて考えました。今はつらさには向き合うべきものと、向き合わなくてもいいものの2つがあると思っています。
自分に非があるつらさは当然向き合わなくてはいけません。僕が経験した離婚がそうです。
ただ、向き合わなくていい自分にはどうしようもないつらさもあると思うんです。その場合は、向き合わないのも選択肢ではないでしょうか。誰かの死であったり、今の新型コロナウイルス感染症などは誰にも想定できませんよね。
41年間生きてきて、自分の想定できないことって人生の中で色々あるなと感じています。想定できなかったこと、どうしようもない答えの出ないことと向き合い過ぎると、どんどん悪いほうに考えてしまう。自分を責めて苦しめ続ける必要もないんじゃないかなと思っています。そういうこととは意識的に向き合わないようにすると、少し気持ちが楽になります。
世界一周に費やした400万円と2年間「 でも、立ち直るためには必要だった」
退職した後は400万円の貯金をはたいて、2年間の世界一周の旅に出ました。アジア・ヨーロッパ・アフリカ・南米と旅をしたのですが、そのうちインドとブラジルで1年費やしました。
無職になりましたが、焦りはあまりなかったんです。精神的にかなり落ちていたので、気持ちをリセットするために旅に出ると決めていました。
そのまま海外で気に入ったところがあったら住んでもいいし、また戻ってきてもいいしというくらいの感覚でいました。
でももう32歳だったので、旅に出る際は旅に意味を持たせないとだめだなとは思っていました。旅に意味があれば、日本に帰ってきてもどうとでもなるかなという感覚があったんです。
インドでは修行僧のように毎日ヨガをして、一時期はヨガの先生になろうかなと真剣に思うくらいのめり込みました。今もヨガを毎日欠かさずにするんですが、自分の人生に活かされているなと思います。精神統一というか、精神安定みたいな部分でヨガはかなり効果的なんです。
ブラジルにはカポエイラとカーニバルを目的に行きました。カーニバルは自分で太鼓を叩いて出たいなと思って。それが叶えられる場所があるんですよ。サルバドールに日本人が経営している宿があって。そこの宿のオーナーが音楽のセンスがすごくあるんです。旅人の中では有名な宿でした。
カーニバルの時期の1、2ヶ月前からその宿に旅人が集まり始めて、合宿みたいな感じで毎日練習するんです。それで、実際に演奏するっていうのがとても魅力的で。僕もその宿に泊まりながら、練習を重ねてカーニバルに参加しました。めちゃくちゃ面白くて、とてもハイになりました。みんな真剣に練習して参加するので、達成感が半端ないんですよね。
インドやブラジルで過ごしたことで、自分の悩みはなんて小さいんだと思えるようになりました。他人から見たら「400万円を使ってもっと現実的なことをするべきだ」と思うかもしれませんが、僕にとっては立ち直るために必要なことだったんです。
日本かケニアか 選んだのは将来を見据えた選択
帰国後、日本で会社員をやるか青年海外協力隊に行くという2つの選択肢がありました。
今僕が働いている会社は、旅をしている時から「自由そうに働ける会社でいいな」と興味を持っていました。会長が有名な人で、本を出版したりカンブリア宮殿に出たりしている人なんです。中途採用はしていなかったので、「面接をして欲しいです」というお願いのメールを会社に送りました。それで縁があって採用してもらえることになったんです。
その時、並行して応募していた青年海外協力隊の参加も決まっていました。ケニアに2年間の派遣だったんですけど、どちらにしようか悩みました。
ケニアも楽しそうだと思ったんですが、帰国したら36歳になっているんですよね。そうすると、「もう日本のサラリーマンは無理だろうな」と思いました。それに、ケニアに骨を埋めるほどの気概は自分にはなかったんです。
きっと2年は楽しいだろうけど、トータルの人生を考えた時に、苦労するだろうなという現実的な未来を考えたんです。結果的に将来を見据えて日本に残る決断をしました。
「サラリーマンは悪いことばかりじゃない」一人じゃできないことができる
入社当初はとにかく自分で仕事を作るしかなく、最初の2年は鳴かず飛ばずでした。
儲かればいいやと思って、大人向けのグッズ「TENGA」を海外に売るために、TENGA社に行って交渉したこともあります(笑)。何かやらなきゃいけないという感じでなりふり構わず必死でした。
必死に食らいついて、当たったのが今の仕事。貴金属スクラップをロシアから仕入れて、日本のお客さまに販売するという事業です。自分で作った事業なのでやりがいはあります。
今の会社に入ってからサラリーマンのイメージはガラリと変化しました。サラリーマンは型にハマっているというイメージが強かったのですが、実際やってみると悪いことばかりじゃないんですよね。
会社の力を利用できれば、自分一人じゃできないこともできる。もちろん会社に利益を出すことが求められますが、それができれば自分でやりたいことを創造できるのは会社で働くことの魅力だと思います。
自分のために生きてきて気づいた「人のために生きたい」
じつは今は人のために生きたいと思っているんです。
41年間は自分がしたいことだけをしてきた人生。自分の楽しみだけを追い求めて生きてきました。
大体の人は30歳くらいから人のために生きたいと思うのかもしれませんが、僕は40歳を過ぎて、ようやく「人のために生きることって楽しいんだ」と、思えるようになったんです。
再婚をし、子どもを作ろうとしているということも関係しているかもしれません。離婚して旅をして、色々な経験をして今がある。辛いことも楽しいこともありましたが、全てを抱えながら生き抜きたいと思います。
【編集後記】竹内さんの生き方を聞いた直後、ぱっと浮かんだのが孔子の人生観についての有名な一説でした。「吾、十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、のりをこえず」。人は誰しも自分が「何者かになろうと」と必死に生きています。それは若ければ、若いほどきっとそうでしょう。私自身はまだ30代で、自分の人生のために必死に生きています。だからこそ、竹内さんの言葉はとても新鮮でした。いつか、自分も人のために生きようと思う時が来るのでしょうか。そうなるためにまずは自分の人生としっかりと向き合おうと思います。
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