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こころがふたつある

幼い頃の環境は、恵まれたものだったと思う。

習い事をたくさんさせてもらえて、行事ごとのイベントは必ず家族でやるし、旅行にだってしょっちゅう連れて行ってもらえた。

大きな一戸建て。広い庭だってあるし、ペットもいる。
理想の家族。

物質的には間違いなく「恵まれた」環境。
でも、私の気持ちに寄り添ってくれた記憶が、ほとんどない。
親が望まないことを言えば否定され、怒られる。だから親が喜ぶ選択ばかりしてきた。

いろんなことを我慢した。
我慢する癖がついた。



習い事、ほんとは大嫌いでずっと辞めたかった。
机の中を勝手に触られてすごく嫌だった。
漫画を描いていたこと、馬鹿にされて恥ずかしかった。
メイクをしたら「色気付いてる」と言われて悲しかった。
「お姉ちゃんでしょ」好きでお姉ちゃんになったわけじゃない。
ランドセル、本当はピンクが良かった。
「なんでそんなこともできないの」なんて言わないで、教えてほしかった。

言えなかった。
言っても聞いてくれなかった。

いつしか自分の本当の気持ちがわからなくなっていたけど、それにさえ気づいていなかった
ということに気づいたのは、ずいぶん大人になってから。

"良い環境で育ててくれたのに、親を悪く思うなんて最低だ。お母さんだって必死だったんだから"

奥深くに、こんな抑圧もあったらしい。
それに気づけたことは大きな一歩だった。

物質的には恵まれていたけれど、私の心は無視されてきた。

親のおかげで、今できることや褒められることももちろんある。
貴重な体験もたくさんさせてもらえた。
本当にありがたいことで、心から感謝している。

だけど

心を蔑ろにされ続けた代償が大きいのもまた事実。

自分がどうしたいのかわからない。
自分のことは後回し、相手が望む方、喜ぶ方を選ぶ。
決断を委ねられると決められない。
NOとはっきり言えない。
自己主張をすること=わがままだと思っていたから、自分の意見が言えない。

感謝の気持ちと、でも今苦しいんだよ、という気持ち
親を悪く思うなんて酷い人間だという自己嫌悪がぐるぐると入り混じる。

真逆の感情は同時に存在し得るのだと知った。
矛盾した感情を抱えると、答えが出ない。
どうしたらいいんだろう、考え続けた。

考えて考えて考えた結果、ある日腑に落ちた。
「両方存在して、いい。人間だもの、仕方がない。どちらかひとつの気持ちしか感じたらいけないなんてことはない。いろんな感情があって当然」

ジャッジせず、ただ、そのままにする。
それでいいんだと思った。

感情に正解も間違いもない。
私はそう感じているんだなぁ、つらかったね、嬉しかったね、寂しかったね、とどちらの気持ちにも寄り添ってあげる。それだけ。

湧き上がる感情をただ眺める、受け入れる

それを何度も繰り返していくうちに、私の中にいる幼い私を抱きしめているような、そんな感覚になった。


今の私にできること。
素直な感情をありのままに認めて、そう感じることを許可してあげる。
心の声を無視せずに、丁寧に汲み取ってあげる。

「あ、今、私我慢したな。言えなかったな。こんなこと思ったらダメって抑え込んだな」ということに気づき、それはどうして?そう思ったのはどうして?を繰り返し、本音を深掘りしていく。

その小さな積み重ねが、「私」という核を持つことにもつながるはずだから。

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