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小声の日記(01/22〜01/28)

01/22
寄付したことを報告する投稿文を書く。色々考えた結果事後報告にしたけれど、そもそも書くことでもなかったのか、でもせっかくうちにお金を払ってくれた人がいるのだから、それが寄付として使われたことはきちんとお伝えすべきなんじゃないか、なんてことを考えながら綴る。寄付した、という事実があるだけなんだけど、なかなか難しい。この世の中に簡単なことなんて何一つないんじゃないかと思うくらい、最近はいろんなことが難しいと思うようになったし、何に対しても「いや難しいですよね〜」と言ってしまう。

01/23
送った豆が届くようになったので、試飲再び。深煎り豆の甘みを帯びた苦味が好きだ。まさかこんなに珈琲を飲むようになるなんて、学生の頃の自分からしたら驚きだろうな。
脳のお休み。自分の想像力なんてたかが知れていることを突きつけられている。人の気持ちがまったくわからない、ということは多分ないと思う。けれど、人の気持ちが、人の傷の痛みが100%わかることもない。わかろうとする姿勢すら、暴力になり得るのかもしれない。そのどうにもならなさを抱えて、あなたはどうするのと問われているような気分になる。どうにもできないけど、どうにもできないことを自覚しているのとしていないのとでは、あらゆるものとの関わり方が変わってくるのかもしれない。

診察の終わりに「これまでよく頑張りましたね」と声を掛けられたが、それは「これからは違う」ことを強く意識する言葉だった。脳を休ませたら、本来の自分を取り戻せるだろうか。本来の自分?それはどの私を指すのだろう。

脳のお休み | 蟹の親子

オッドタクシーを見終わる。自分はドブみたいな少しでも人間らしさを出して来たり仲間感を出してきたりする悪人にまんまと洗脳されてしまうタイプだと思う。だからキャラクターの中ではドブが一番怖いと思った。安心してしまうのだろうな。どうしたら洗脳されずに済むのかを考えたが、何も思いつかなかった。

01/24
直近で腹がたったエピソードと、年々短気になっているような気がすること、もっと飄々と生きていたいことを妻に話すと「それは怒ってもいいんじゃないの」と言われて、えっ、そうなのかと安心?納得?した。昨年心理検査を受けたときに「感情が未分化」と言われたことを思い出す。自分の感情に名前をつけることができない。だから後からじわじわ怒りが込み上げてきたり悲しくなったりすることばかり。

01/25
寒くて起きるのに手こずった。昨日より雪が積もっていて、ゴミを捨てに外に出るとまた雪が降っていた。このまま散歩に行ってしまいたかったが、仕事もあるし寒いしで、諦める。
「届けた先ではペーパードリップで淹れるのがほとんどだろう。それならば自分もペーパードリップで味わいを確かめなければ」と思ってしばらくやっていなかったネルドリップを再開したところ、妻から「うまっ!」という反応が返ってきたので内心ニヤリとする。わかる、いいよね、ネルドリップ。

01/26
焙煎日のお知らせ文を書く。たかだか1投稿のはずなのに、1週間くらい書いては直してを繰り返している気がする。最終的にエイヤで投稿してしまうけど、その後あれでよかったのかということを毎回自問してしまう。スッキリ書ける日はやってくるのか。
「言葉にできないなにか」と向き合うことができない。自分が書くものがおもしろくないと感じるのも、体験を深く咀嚼せずに表現しやすい言葉だけで成り立たせているからなんだろう。遠回りする文章、というものから始めてみるのがいいかもしれない。

01/27
FacebookとBASEとの連携諦めた、と言いながら粘ったらなんとか進めた。結局やるんかい。 思ってた以上にInstagramでの情報の拡散具合?が過去やっていた頃に比べて伸びない感じがしたので、連携することにしたのだった。 これでうまくいくかはわからないけど、何かしら知ってもらう方法はたくさんあったほうがいい。売れたい欲望はしっかりある。そう、何にしろ売れたい。大切にしたいことを犠牲にすることはしないけど、できるなら、できるだけ、できることをやっておきたい。己の美学を貫くためなら売れなくてもいい、とは思わない。それはただの意地。バランスが難しい。

01/28
久しぶりの快晴。外が眩しい。
珈琲の説明を何もしてなかったなと思い、2日連続でInstagramに投稿した。伝わるのか伝わらないのかよくわからない文章を書いてしまった。かといって、詳しく書くのもおもしろみに欠けるよな、ということを思ってしまう。数値化されたものより、想像する余白のある方が好きだし、それをおもしろがってくれる人に買われたいという願望がある。ただ、それをうまく表したものが書けているかというと微妙かもしれない。


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