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【36】#読書 わたしの外国語漂流記

私は今、韓国語を独学(カッコいい感じではないんですが)でちょこっとしてるのですが、最近壁にぶつかってます。
 
それが、私の日本語があやふやなんです…。
 
そんな壁にぶつかるとは想像してなかったのですが、例えば単語帳を覚えているときに「しばしば」という日本語訳の単語が出てきて、「しばしばって頻度はどれくらいだっけ?」とか、副詞の「〜が」「〜に」「〜まで」「〜など」とかイメージしづらい…。覚えられない。
 文法は普段意識せずに使っているみたいで、なかなか定着しないですね。
 そんなとき、参考になるかな?と思って読んだ本です。

2020年発行 14歳の世渡り術 というシリーズの中学生から大人向けの本です。


瞬発力が生死を分かつアウトロー英語  ジャーナリスト 丸山ゴンザレス

(中略)
こうした会話力は、英語を勉強すれば自然と鍛えられるかといえば否である。母語で思考する鍛錬なしでは身につかない。それは思考する部分の能力だからだ。知識としての英単語や熟語、こなれた言い回しを覚えても、結局は使う人のベースとなる能力が重要なのだ。

あいづちと変身 文化人類学者 石井美保

(中略)
言葉とは何よりもまず声であり、リズムであり、やりとりであるのだから、それを学ぶには、全身で他者や世界と関わり、とっくみあわなくてはならない。その過程で、私は言語を自分のものにしていくと同時に、その語彙や身ぶり、リズムが織りなす世界に取りこまれていく。私はそのとき、母国語と現地語を媒介するものになる。


やっぱり、母語ありきで、語学ってあるのだな。と思いました。
そして私は普段、言葉になんの思い入れがないことを気付き、反省した文章をご紹介します。


言語を学ぶということ 社会言語学者  吉田欣吾


 自分のことばで産まれることができ、自分のことばで死ぬことができるのは幸せなことだ。

 つまり、自分の親たちが話したことばで生まれ育ち、そのようなことばで人生の最期を見送られることを許されない人々が、世界中にはたくさんいるということです。逆に、自分のことばで生まれ、自分のことばで死ぬことができるのはかなり贅沢なことなのかもしれません。

私がフィンランドの大学へ留学し、サーミ人やフィンランド人の学生に交じって勉強していたときのことです。

かなり年配のサーミ人の女性が若い学生たちと机を並べ、サーミ語を一生懸命に勉強している姿がありました。
自分の言葉を必死になって「取り戻そう」としているその女性の明るくも真剣な姿には、人の心を動かす何かがありました。

その姿を見ると、他人から「ことばを奪う」ことなどははたして許されるのかと問わずにはいられませんでした。


 言葉を奪われた人々の気持ちを想像することしか今はできませんが、自分の歴史、自由を制限される行為だと思います。

私は自分でやってみようと思い、韓国語を勉強していますが、母語を基準にして思考し、それでも壁にぶつかり、試行錯誤してます。
 好き好んで、選んだことなので、もっと謙虚さをもち、学習しないとなと思いました。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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