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閑谷学校 永遠と現在を行き来する建築 評者:藤原徹平

2017年夏に刊行した書籍『国宝・閑谷学校|Timeless Landscapes 1』について、建築家・藤原徹平氏による書評(約5,600字)を公開します。
『住宅建築』2018年2月号に掲載されたものから、大幅に加筆され、独自の津田永忠論にもなっています。

閑谷学校を造営した津田永忠のことがいつからかずっと気になっている。岡山藩随一の切れ者で、岡山藩200年の歴史のなかでも最も傑出した藩政家だと評される。私としては、日本にもし近世以前の建築家の系譜学というものをつくるとすれば、東大寺を再建した重源、瑞泉寺を作庭した夢窓疎石、茶室を極めた千利休らに並んで最大級の取り扱いをすべき人物だと思っている。

稀代の実務家である津田永忠は、そのキャリアの始まりで池田家の墓所を驚くべき短工期で完成させたのち、学校奉行の職につくや藩主・池田光政の意を受け、手習い所を藩内123カ所につくり、また岡山城内には藩校をつくり上げる。この手習い所は庶民でも教育を受けることができる日本初の公立学校制度である。池田光政が儒教の熱心な信奉者ゆえに実現したこの庶民の手習い所は、しかし農民や町民の大多数に理解されず閉鎖、閑谷の地に統合される。これが閑谷学校の起こりである。

本書『国宝・閑谷学校|Timeless Landscapes 1』は、写真家・小川重雄が見事に写し取った閑谷学校の姿と、建築史家・西本真一の解説、さらには測量をもとにした精緻な図面の3つが一冊に綴じられたものである。本の頁をめくる前に、まずその大変に美しい造本に見惚れてしまった人も多いだろう。鉱物のような不思議な物質感、モノとしての美しい佇まいがある。これは、小川重雄の写真の力でもあり、ブックデザインを担当した秋山伸のデザインの力でもあろう。表紙には美しく反射する閑谷学校の講堂の床の光の揺らめきを捉えた写真を使っている。また裏表紙においても、花頭窓と障子の光が講堂の床に移り込む様相の写真が用いられている。建築の外形がわかる写真を用いないという点からしてまず大胆かつ強固なデザインへの意思を感じる。何しろ本のタイトルは「国宝・閑谷学校」なのである。建築物の固有名をタイトルにしながら、しかしその建築の姿・形の情報を用いずに、空間を経験した時の知覚の断片から入る。しかしながら、不思議とこの講堂の床の光の揺らめきは、私たちの記憶を刺激する。閑谷学校に訪れた人ならば誰もが覚えているであろう、その凛とした空気感そのものが伝ってくる。なぜなのだろうか。その謎に対する応答は、西本真一の名解説文の最後に記されている。

夕刻、からからから……と、閑谷学校の雨戸がすべて閉ざされ、この建物はあたかも屋根が載せられた大きな箱のような姿へと変貌する。陽光はほぼ遮断されて、昼間とは異なり、暗箱へと転ずる。この写真集で被写体となっている閑谷学校は、それ自体が大きな「カメラ・オブスクラ:暗い部屋」でもあり、床面には鏡も隠し持っている。たぶん偶然ではないその重層性について、最後に言い添えておく。(西本真一)

ここで急いで補足をしておくならば、われわれがよく知り、また本書で取り扱っているこの閑谷学校という建築は、池田光政が存命時、つまり先ほど私が述べた日本初の庶民学校が立ち上がった時には存在していなかった建築物である。最初は閑谷の地にもっとずっと簡素な学校の建物が建っていたことが伝わっている。光政が死去する時に遺言で「閑谷学校を永遠に残せ」と永忠に命じたことがきっかけとなって、閑谷学校の現在の美しい伽藍が計画されていく。つまり津田永忠は、2回、閑谷学校を造営したことになる。1回目の建築は、この国に身分に関係なく学べる学校というものを無から立ち上げるための建築であり、2回目の建築は、立ち上がった学校という存在を永遠に在らしめるための建築である。光政の死後も、藩の重臣たちは一致して閑谷学校、庶民学校の存続に反対したのだという。つまり、我々が心動かされるこの建築は、津田永忠という個人の確固たる意志によって創造された「神殿としての学校建築」なのだ。

津田は、万人に開かれた学校を永遠に残すというミッションに対して、建築をつくる前に、学校を取り巻く全体の環境を計画した。人々が集まってくるための広場、山火事から学校を守る火除けのための丘、防災のための池、火事や災害から守るための長大な石塀(石塀は地震で倒壊することがないように地盤まで届いている)、石塀で閉ざした内側の治水を制御するための石造りの埋設管による排水路など、大胆かつ緻密な計画が駆使されている。石塀は大阪城などの城壁を手掛けた当代一流の石工集団が手掛け、治水計画も岡山藩最大の新田計画を手掛ける職人集団が普請している。津田は生涯で2,000haを超える新田開発を推進し名庭・後楽園の差配も行ったが、閑谷学校はその津田の地勢を読み、伽藍をつくるという才能が存分に発揮されたプロジェクトである。犬島などの石をカマボコ状断面に積んだ石塀はたいへんな物質感で、この建築を特別なものに際立たせる伽藍をつくる結界である。

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閑谷学校の建築そのものも当時の様式建築の常識から大きく逸脱した工学的美学によって計画されている。まず平面形は極めて純粋な内陣・外陣の幾何学的構成をとっており、4面に軒が出た純粋な構成をしており他の聖堂建築にまったく類例がない。立面においても、入母屋造で屋根は二段屋根となる錣葺きとしながらも、段が変わるところで角度の変化がほとんどない。造形に対する極めて冷静な美学を感じる。屋根瓦は1,200℃もの高温で焼き締めた備前焼の瓦屋根としており、どうも津田はこの瓦を焼くための窯をわざわざ造営しているようだ。瓦の下地の中には陶管が埋まっていて結露による下地板の腐敗を防ぐ工夫がある。あらゆる仕上げ材は防虫のために漆が塗り込まれ、雨戸には車輪をつけ日々のメンテナンスを容易にしている。こういった細かい配慮のすべてがこの時代にとっては異例の気配りであり、津田永忠の時代を超越した近代的感覚や、まったく常識にとらわれない決断力をよく示す。

私がその知性と人間性をたいへん信頼する同世代の友人に木口統之という劇作家・演出家・建築家がいる。彼は倉敷の出身なのだが、彼が言うには、岡山県の中学生は必ず社会科見学などで閑谷学校に行き、正座をして論語の朗読を行うのだという。そしてその閑谷学校の講堂での経験が自身の人生での最高の建築体験のひとつであると評していた。単に素晴らしい建築体験だったというだけでなく、どうも彼の口ぶりからすると、故郷への尊敬、風土への身体的つながりをこの建築を通じて語っているようにも感じた。私は、なるほど学校として永遠に残るということは、このようにして可能なのかと心から感心した。本書のなかにも、中学生とおぼしき集団が、論語を朗読しているであろう光景が一枚おさめられている。今回改めて確認してみたら、本書では人の姿が写った写真はこの一枚だけである。それ以外の頁をめくっていくと、建築や庭園の言語の織りなす環境を的確に捉えた写真によって、閑谷学校の伽藍のなかを読者は彷徨うことになる。この読書を通じた建築的なプロムナードの経験は、300年間この地にずっと変わらず在り続けた時間尺度の建築の記述である。そして、たった一枚途中に挿入された、現在の学生が朗読をしている写真は、この建築が、今この時確かに場所として存在し使われていることを紡いでいく重要なショットの挿入である。我々は頁をめくり、戻り、まためくるという読書の経験を通じて、閑谷学校の永遠と現在を行き来することになる。

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津田永忠は、陽明学の知行合一の考えをその行動理念の根本に置いていたことで知られる。知識だけではなく、行動をともなってこその知識であるという考えである。大多府(おおたぶ)の防波堤など今も使われている多くの土木遺構を残しており、土木工学の世界でも歴史上の巨人として扱われる。彼の建築、土木を通じた最大規模のプロジェクトは、城下を流れる暴れ川、旭川の「治水」と新田の「開発」を同時に成した事業だろう。旭川の放水路として巾百間の人口河川・百間川をつくり、この川を周辺の小河川群の排水路として機能させながら、沖合の広大な新田開発のための用水路として活用するという壮大かつ創造的な計画である。ここにおいても津田永忠は天才的な冴えと行動家としての力強さを見せる。一般通念として、大河川の河口での広大な干拓は、水の流れを停滞させ、地域の水利を極端に悪化させる恐れがある。師である熊沢蕃山を含め、水利の基本を知らぬ愚策として、猛反対があったらしい。永忠は貧困にあえぐ農民のために命をかけて開発を進言する。藩の要人が皆反対するなかでのプロジェクトだったので、資金も大阪商人からの出資をひとりでとりつけて、実現してしまう。急流の川の流れを利用した放水路兼用水という「治水」と「開発」の同時解決を成しとげ、1,900haという広大な干拓地を得ることで岡山藩の農業生産の基盤を確固たるものにしていく。現在岡山にある2万5,000haの農地のうち2万haは干拓によるものであるというから、津田が切り開いた岡山の大規模干拓へのチャレンジは、現在にまで連なる大きな歴史的文脈である。私が着目したいのは、津田が差配した天下の名庭園である林泉式庭園の後楽園も、実はこの治水事業で城下の水利を完全に制御した結果としてつくり出された庭園であるということだ。水を制し、河川を産業の基盤に置き換え、またその水をもって、庭園をつくり、文化を成すという津田永忠の建築家、実務家、知識人としてのスケールの大きさは、時代の価値観が転換し社会のあり方そのものを構築していくことが求められる現代において、鋭く批評性を持つ。

津田永忠とはどのような人物だったのであろうか。柴田一氏著の伝記を読んでいくと、どんなプロジェクトをやらせても抜群の成果を出しているようでその有能振りには舌を巻くしかない。1682年、綱政に請われて藩の郡代に就くやわずか10年の間に、郡代本来の仕事をやりながらその他に、幸島新田・沖新田、田原井堰、益原用水、百間川、後楽園・閑谷学校をつくり、後年には牛窓湊に石波止、吉備津彦神社の造営も手掛けている。これほどまでの業績をなす背景には、抜群の知性のみならず、岡山―京都をわずか四日で往復するほどの超人的な体力、道理の前には門閥家老も眼中にない強心臓が挙げられ、また当然ながら多くの優秀な部下に支えられた。土木・治水に天才的な素質があった田坂与七郎、近藤七助、大阪石工で津田に見込まれて岡山に移住した河内屋治兵衛など才能ある部下を永忠は大いに評価し、取り立て、その事業のすべてをチームで取り組んでいく。

津田が進言し光政が承認したことで始まった「社倉米」も彼の人となりをよく示す。これは4つの狙いを持ってすすめられた。第一は、低利金融のシステムを持つことで高利貸から領民を守り、藩外への銀の流出を防ぐためである。第二は、飢饉のときの領民救済の目的での米の備蓄である。第三は、社倉米の低金利貸付による領民の減税の代替措置である。第四は、手習い所(閑谷学校)の維持運営のための財源確保である。つまり、光政の儒教的な想いから庶民のための手習い所、閑谷学校をつくることになった永忠は、単に建築をつくるだけでなく、その財源確保をしつつ、さらには領民の減税と、藩の財政基盤の強化のすべてを成し遂げるというとんでもないアイデアを思い付き実現してしまう。閑谷学校を造営する際にも、いかなる政治下においても存続できるように藩の財産(政治)から切り離した学校独自の試算として学校田を開発している(今もその学校田は残っている)。津田は建築、土木に長じていただけでなく、その思想的背景には経済を含めた万民救済の大きな文化創造のビジョンを持っていたに違いない。

津田永忠の人生を振り返っていて面白いのは、光政が隠居したのち1673年に知行千五〇〇石と岡山城下の屋敷を返上し、閑谷の地の学校田二七〇石余を得て閑谷学校付きの百姓となってしまったことだ。子々孫々まで閑谷の地に住み、閑谷学校の経営に専念したいと申し出ている。一旦この申し出は受け取られ、津田永忠は、百姓として生きることになる。不思議な人物である。しかし閑谷の地で農民として暮らしていた折に、大飢饉のたびに多数の餓死者がでる岡山藩の状況を見過ごせず、光政の子・綱政にしばしば政策を提言し、ついに綱政の側から請われて表舞台に戻る。それからの八面六臂の活躍は先に述べたとおりである。1701年に閑谷学校を完成させたのち、1704年には再び隠居を願い出て、閑谷の地に隠居し1707年に死去する。永忠の死後再び閑谷学校の廃止の議論が出るが、一部の存続論者が説得し、津田永忠の五男・永章が閑谷御用の職を生涯受け継ぐ。そして閑谷学校が教育内容の面で充実し、岡山藩の庶民教育の重要な拠点として確固たる存在となっていくのは、永章が晩年のとき1763年に有吉以顕が教授職に就任して以降のことである。津田永忠とその子永章の二代にわたる信念が閑谷学校を300年先の現在にまで存続させた。

津田永忠が関わった閑谷学校、後楽園、吉備津彦神社らその他すべての事業に通じるのは、建築・土木・庭園のすべてがひとまとまりになり環境をつくっていく理知的な美学、プロジェクトを実現するための強固な意志、才能集団を束ねる卓越したマネジメント能力、建築・土木にとどまらず社会の経済や産業システムへの介入、身分や立場に頓着がなく万民を愛する垣根がない人間性、そして超人的な体力と気力。私は、津田永忠を近世以前の建築家像の造形の一端に加えてみたいと考えるが、それは同時に現代における建築家像の造形ということでもある。本書は、閑谷学校の素晴らしさに導かれてつくられた一編の映画のような美しい本である。そしてまた、津田永忠という歴史的巨人の到達点を知り、伝統を、現在性をともなって理解しうる最高の良書でもあると思う。

2018年8月

『国宝・閑谷学校|Timeless Landscapes 1』
写真:小川重雄
解説:西本真一
デザイン:秋山伸
図面制作:駒崎継広 半田悠人
翻訳:ハート・ララビー
協力:公益財団法人 特別史跡旧閑谷学校顕彰保存会
ISBN:978-4-9905436-7-9
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http://www.millegraph.com/books/isbn978-4990543679/


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